あおりんごの凡ぶろぐ

美大を卒業した後、色々な経験を経て、現在は個人事業主&作家活動中

星の王子さまと大きな赤蕪

今までどうしても読めなかった本シリーズ第二回(続くのかな?)
興味はあるのに一度も最後まで読めたことがない本のひとつ。
今回は、かの有名な

サン=テグジュペリさんの「星の王子さま

本当に何度も挑戦したのですが、最後まで読み終えられた試しがない。
何故か読めなかった。
でも読み終わってから、今が読むタイミングだったのだと実感しました。

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ここからは私の独断と偏見の感想となります。
異論は認めます。

海外の方の文章を日本語訳にしたからかもしれませんが、読み終わっても私の心が揺れ動くことは特になく「王子さまは星へ帰って花と幸せに暮らしました、めでたしめでたし」とそのまま納得しました。

昔からなのですが、私は卒業式やお葬式など友人や家族との別れで皆が涙を流している中、悲しく思ったことがありません。
生きていても死んでいてもまた会うことが出来ると思っているからです。
恋人と別れるときは今生の別れなのでちゃんと悲しみます。
生きていても死んでいても二度と会わないと思っているからです。
自分で書いていて不思議に感じてきましたが、話が逸れそうなのでこれについてはまた別の機会に考えることにします。

さて、何度も出てきた気になる言葉。
・肝心なところ、美しいところは目に見えない
・目に見えているのはガワだけ
なるほど、少年漫画の修行の場で見かける「心の目で見るんだ」というセリフに近い。
それでは自分の心の目で周りを見てみるとしたらどうでしょう。
色んな人と話しているとふと「見ているものが違う」と感じる瞬間があります。

皆「今を生きること」にフォーカスを当てているのです。
私は「自分を含め色んなものが亡くなった後のこと」を見つめて生きています。
生きたいと思えるのは、死というタイムリミットがあるからです。
でもそこから先を考えている人は意外と少ないことに気付きました。
今までの周りとのズレはそこから生じていたのかもしれません。


星の王子さまは、肉体が重たいからといって、わざと毒蛇に噛まれて肉体を置いて星へ帰るのですが、比喩ではなくそのままの意味に感じました。
私が身内の死を目の当たりにした時も「肉体の生活が終わり、魂だけの新たな生が始まったのだな」と同じように感じたからです。
だからまたどこかで会える気がしているのはこういうことだと思います。
そしてこの場面、ふと思い浮かんだのが月に帰った「かぐや姫」でした。
かぐや姫は肉体と一緒に月へ帰ったように描かれていますが浮遊して帰った描写が印象的でしたので、もしかしたら星の王子さま同様に肉体は地球へ置いて帰った可能性がありますね。
星の王子さまも、かぐや姫も、それぞれの母国ならぬ母星(故郷)があります。
そんな自分の星を持ったいわゆる宇宙人が、昔からよく遊園地のアトラクションのように地球へ特別体験をしに来てはまた家へ帰っていくのかもしれないなぁ。と妄想しています。

けれど、宇宙にいるときよりも重さのある地球での肉体を持った星の王子さまが別に水を飲まなくても平気なのに水を“お祝いの日のごちそうの様に美味しく、嬉しい水“だと感じたり、バラについて思いを馳せたりしたのは、五感を使って記憶をしようとしていたからではないでしょうか。
その五感とは肉体あってこその経験だったのかもしれませんね。
私は肉体+魂で出来る事と、魂のみで出来ることには違いがあるのかな。と考えています。
霊感なんて全く持ち合わせてはいないのですが、絵画、映画、ドラマ、書物、漫画、色んなものから魂や幽霊が表現されていますよね。

そういうものが見える人にも会ったことがあります。

そこで「身体が透けてるから生きている人に見えないし、物を持つ事が出来ない」「食べ物をお供えはするけれど実際食べられないし、お供え物にも制限があるらしい」等の知識を得たと思います。

私には見えないので本当なのかはよくわかりませんが、そうなんだろうなーという感じで受けとりました。

地球に来る前の王子さまは色んな小さな星を巡ります。
皆、それぞれの欲やルールに忠実に生きています。
それが彼らの生き甲斐なのでしょう。
でも実際魂だけになったらそれら全て自分の役には立たないのです。
もしも遺産として考えているならまた別の話だと思いますが、その遺産は本当に100年後も現在と同じ価値があるのでしょうか。
ちょっと考えてしまいます。

キツネの言葉で「俺はパンなんか食いやしない。麦なんて何にもならない。だから麦畑なんか見たところで思い出すことって何もない。それどころか俺はあれ見ると気が塞ぐんだ。だけどあんたのその金色の髪は美しいなぁ。あんたが俺と仲良くしてくれたら俺には素晴らしいものに見えるだろう。金色の麦をみると、あんたを思い出すだろうな。それに麦を吹く風の音も俺には嬉しいだろうな」というかなり長いセリフがあります。
この文章、読んだときは「ふーん」という感じでした。

私はこの本を読み終えてからスーパーへ買い物に出かけます。
そして“巨大な赤蕪“を発見し、人生で初めて赤蕪を購入します。

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何故それを選んだのか。
話は数週間前に遡ります。
家の近所の方が営んでいるお店へ寄ったときに赤蕪の話題が出たからです。
私の小さい頃からご近所付き合いをしており、今でもよく話しかけてくれる人です。
この日はなんとなく私からお店に立ち寄り、話の流れで色んな料理のレシピを教わったのでした。
その中のひとつが赤蕪の酢漬けのレシピだったのです。
私の家では赤蕪の酢漬けが出たことはありませんでしたが、昔この方が漬けた赤蕪の酢漬けを食べさせてもらったときとても美味しかったので印象に残っていました。
ところが数週間前にレシピを聞いたのにうろ覚えだったので、赤蕪を買ったその足でもう一度お店に寄り聞いてきました。

【赤蕪の酢漬けレシピ】

材料
・赤蕪の薄切り
・かんたん酢
・ガラス瓶または琺瑯鍋などガラス質の器(私はガラスの深皿を使用)
※酢による影響の出る鉄や銅、赤蕪の色素が着きそうな焼き物系はお勧めしません。

レシピ
赤蕪をタワシなどで洗う
薄切りにする
カビないように薄切りにした蕪の水気を取り表面を少し乾かす
器に平たく並べる
全てが浸かるくらいにかんたん酢を入れる
なるべく空気が入らないようにラップをして漬けておく(私は別の皿を重しにしました)
※すぐ食べられるが一週間ほど漬けてからの方が味がしみて美味しい

帰ってから即作りました。
早速数枚食べました。

美味しいので一週間後まで残っているかどうかが問題です。

何が言いたかったのか、お分かりいただけたでしょうか。
そう、私は赤蕪を見て近所の方を思い出したとき「ハッ!このことか、キツネさん」とやっと実感することが出来たのです。
何かを関連づけて誰かに想いを馳せる、記憶の絆。
これがキツネの言いたかったことなのでした。

もっとロマンチックな例えがあったかもしれませんが、赤蕪がとても美味しかったのでご近所さんに感謝です。
私も誰かにふと思い出してもらえるようになるのでしょうか。
私と関わった事がない人でも、思い出してもらえるような良い作品を作っていきたいです。

お題「我が家の本棚」