あおりんごの凡ぶろぐ

美大を卒業した後、色々な経験を経て、現在は個人事業主&作家活動中

友人ってなんでしょう?

過去には一緒にいて楽しかったはずが、それから何年も経つとチャンネルの合わない人になる現象に名前はついているのでしょうか。
銀河鉄道の夜」を読んだ時も思ったこと。
人間関係とは「その時たまたま一緒に乗り合わせた人で降りる駅はそれぞれ違う」のだと。

会いたく思っても、お互いに色々な事情があって会えないことがある。
それは今会うべきでないということだ。

パートナーと私もお互いの今までの状況や気持ちを聞いていて学んだことでもある。
「会いたくても会えない状況」は自分の預かり知らぬところで起きていることが多い。
会うべき時に会うようにセッティングされているので、その時まではどうやっても本人同士も会う気分になれなかったり、諸事情により会えなかったりする。

私にもちょくちょく連絡をくれる友人がいる。
それはありがたいことだ。
しかし肝心の私が全く会いたい気持ちになれない。
正直、時間は作れるはずだ。
でも会いたくはない。

原因は過去へ遡る。
友人は私に好意的だが、その好意は「利用目的」が大半であり、薄いものだった。
当時の私にはそれが好意だけだと思い込めていたので、普通に嬉しく感じていた。
だが、その内違和感は募っていく。
4人でよく遊んでいたと思っていたのは私だけで、実際は私抜きの3人で遊んでいたことが多かったようだ。
私にその連絡は来ていない。
つまり仲間外れにされていたのだ。
その会話を目の前で何度もされた時の疎外感、孤独はその子たちに理解されないから私の目の前で話が出来るのでしょう。
果たしてそれを今も「友人」と呼んで付き合うべきだろうか。

現在の生き方も状況もそれぞれ違う。
確かに違うからこそ面白い話は出来るだろう。
ただ、そういう経緯を思い出すと中々会いたいと素直に思うことができない。
手放すことや許しが必要なこともわかるが、自分を守ることも大切だ。
経緯を抜きにしたところで、メッセージの返信を考えるだけでも心身共に疲弊していくことが自覚できる。

別件で、唯一連絡を取っていた前職の人についても。
相手が連絡できる状況だと私もわかっているし別の返信は早いのに、約束の返事が数週間〜1ヶ月待ちで、会っても話題が前職の愚痴なのだ。
別の話題にもしたけれど、何故かいつも前職の愚痴へ話が戻ってしまう。
3年はなんとか気長に我慢しただろうか。
しかし流石に疲れてきたので疎遠となった。

今は新たに出会った、分野も年齢も国籍も違う人たちと楽しく過ごせている。
それにより新たな目標も心のバランスも取れてきている。
話を聞いてみると皆ひとりが好きな人で、友人も少ない、いないと言う人が多い。
なのに他の人とはいかないけど初めて私とお茶や食事に行けたとか、深い話をそれぞれしてくれるのは、友人とまでは呼べなくてもほんの少し信頼してくれているんじゃないかと私は感じている。
そうなるのはお互い自分の仕事に(ジャンルはバラバラ)誇りを持って一途な方々だからこそ深い表現の話が可能でもあるのだとも。

悲しかったこと、悔しかったこと、苦しかったこと、寂しかったこと。
私が感じたことを他人にしないよう気をつけながら生きたい。

風邪もコロナも心の痛みもなるべく私で終わらせたい。
自分によって他の人に同じような体験させたくないから、会うなら少人数で相手に歩み寄る努力を。
そして大人数ならば内容は薄くなるけれど皆が知っている話題にして置いてきぼりをしないように。
私に出来ることをして生きていく。

以前の私はお人よしだったからというのもあるけれど、今は角が立たぬよう自分の気持ちに従って断ることにしている。
そうして生きていると人間関係は縮小していくのだが、心にも時間にも余裕ができるし、できた余裕を今そばにいる私の大切だと思う人たちに目一杯注ぐことが可能になる。

傷ついたけれど、恨んでいるわけでもなく、会いたくない。
ただそれだけの話でした。
それぞれが幸せに過ごせますように!

お題「ささやかな幸せ」