あおりんごの凡ぶろぐ

美大を卒業した後、色々な経験を経て、現在は個人事業主&作家活動中

苦手意識と運命の輪


桜咲く春、結婚披露宴にお呼ばれしましたので行って参ったあおりんご。
とても豪華で幸せなお式でした。
そこで私はまた自分と向き合うことになります。

結婚式、披露宴にお呼ばれすると必ず思うことは3つ。
・なぜ私が呼ばれるのか
・私には友人たちのような幸せを得るにはハードルが高過ぎる
・一緒に呼ばれたものの合わない友人がいる

とても光栄なことなんだけど、そういうのって私よりももっと親しい人を呼ぶんじゃないのかな?など色々勘繰ってしまうけれど、彼らにとって一生に一度の晴れ舞台ですから、私もヘマを起こさぬよう緊張感を持ちひっそりと何事もなく過ごすようにしています。

【自分に必要な機会は形を変えて何度も巡ってくる】

式を目にする度に「私には非常に難易度の高いことを彼らは成し遂げている」と実感します。
私は今までお付き合いしたところで「一生一緒にいたい」と思う人はいなかったし、遊びで付き合っているわけじゃないにしても、お互いにそう思えなければどうやったって続かないものだと知っているからです。

合わない友人たちに関しては「ものすごく嫌いじゃないけど合わないな」というところです。
幸い、お互いにそう思っているようで、会えば話すけど連絡はしません。
しかし実は昨年末、別の共通の友人から「(私の苦手な人たちに)どうしても会わせたい」というような連絡があり、一度断ったことがありました。
多分連絡をくれた友人にとっては、私と会うことで何かメリットを感じ、同じような状況の友人を勇気づけてほしいという意味で会わせたかったのでしょう。
しかし私にとっては「苦手な人たちに会う」ことに加え「友人の強制力」を感じ、体調がめちゃくちゃ悪くなりお断りをしました。
私は昔から「第三者の強制力」がとても苦手だったこともあり、少しでもそのような意思が見えると引いてしまいます。
でも引き合わせようとした友人も、披露宴に呼んでくれた友人も、善かれと思っているので大変気を遣います。
断るときには今は会えないけれど、そのうち必要だったら会うことになると思うと返していました。
その二度目の機会が先日の披露宴だったわけですね。
ここまで来ると必然性が見えて来るので「この人たちは今どうしても私が会っておくべき人たちで、それが私にとって次のステップに向かう鍵のひとつになるからこの機会が二度も巡ってきたのだな(多分これ断っても三度目があるな)」と私も腹を括ります。

【身体がある内に体験できること、魂が持っていけるもの】

aor1ngo.hateblo.jp


銀河鉄道の夜の時にも書きましたが、人生は列車に乗っているようなもの。
どこで同乗し、どこで別の道を歩み、また同乗するかもわかりません。
でも仲が良かろうがそうでもなかろうが結婚しようがしまいが一生同じ車両で隣り合うということはないのです。

最近知ったのですが仏教用語で「独生独死独去独来(ドクセイドクシドッキョドクライ)」という言葉があるそうです。
私も常々思っていることですが、身体や脳の欲する欲というものは実際生を全うした後には持ってはいけないものばかりです。
身体はもちろん、お金や地位に名声、人間関係も然り。

親戚にも「本ばかり買ってないで服とかもっと良いもの買いなさい」と言われました。
「良いもの」という価値観は本当に人それぞれだと思います。
服は流行もあるし、古くなったり、汚れたり、使えなくなるけど、本から得る知識は時代により多少古くなるけど、どこかで点と点が結びつくように使えるものが沢山あると私は思っています。
経験も本と同じかなと思ったけれど、よくよく考えてみれば「服を着る」も「服を着てどこかへ出かける」「服を着て誰かと会う」も経験になりますね。
でも今の私にはまだ着れる服たくさんあるし、知識を得て考える方がもっと遠くへ行けるのでとても楽しいです。
このように身体がある内に出来る事って実は限られています。

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以前のブログでもご紹介した「エンディングカット」というドラマでもそうでしたが、亡くなった方の身体を清め、外見をメイクアップし、最後に「棺に何か一緒に入れたいものはないか?」とご家族に問う場面があります。
棺に入れるのは、実際物なのですが日本では火葬や土葬されたとて魂になってしまっては結局何も持ってはいけません。
でもそこではほんの些細な物が登場します。
そしてその物と亡くなった人との思い出について家族で語ります。
当事者たちにしか共通しない思い出。
実はこれだけが唯一お互いにお守りのように持っておける物なのではないかと私は思っています。

少し話が逸れましたが、お互いに特に連絡もしていないのに会うことになるのはやはり必然性が高く、これぞご縁というものかなと思います。
数年経って会ってもまだ苦手なのか、何をどう苦手と感じているのか、しかし人間は自分の映し鏡と考えると相手から自分はどう見えているのか、共通点はあるか、また違う点はあるのか。ということを再確認できる良い機会となったのは間違いありません。
確認したとはいえ、私は彼らとの付き合いを変えることはないと思います。
今まで通り、用事もなければお互いに連絡することはないでしょう。

結婚式についても「こんな形の幸せがあるのか」と教えてくれるものだと感じています。
ただ自分も同じような幸せが欲しいか?と聞かれると疑問が残ります。

【私の結婚観】

昨年から何となくアンテナに引っかかるので日本の神様の歴史を学んでいるのですが、よく神様同士の結婚という言葉が出てきます。
それが今ではタブーとされている近親者同士での結婚も多々あるのです。
その後、神様ではなく日本人の歴史を追っても政略結婚なるものがあります。
その時代にだって恋愛結婚できた人たちはいるのかもしれませんが、ごく少数だったのかなと考えます。
とすると、私に結婚が必要か?という点については、絶対必要なことではない、というのが答えになります。

LGBTQの知識には疎いとはいえ、小さい頃から自分の持つ性別や外見的なもので周りからの扱いが変わることがどうも苦手でした。
「あおりんごが○(性別)だったらよかったのに」とも言われて育ちました。
性別も性格も変えたいとも思わないけど、そう見られたくないというのもあり、でも周りの「そうであって欲しい」という期待に応えて今の私の外見が出来上がったと思います。
しかし結局自分の顔も他人の顔も覚えないものですから、日本人の特性上、人前に出るときだけは多少外見に気を使うものの特に執着もないので普段は大層な格好も化粧もしません。

結婚も離婚も昔より軽くできるようなこの時代。
必要な人が必要に思ったときにするものです。
私は10代後半から家族や親戚から「早く結婚してほしい」と言われて育ち、のらりくらりとかわして今に至ります。
私の兄弟は「あおりんごみたいになりたくない、私は普通に幸せになりたい」と言っています。
それはそれで好きにしたら良いし、羨望の裏返しとはいえ、そこに私を巻き込まなくても良いのになーとも思っていました。

私も心から信頼できるパートナーや好きな人が出来たらどれだけ幸せなのだろう。とふと思うことはあります。
ただ、側から見ても親戚から見てもこんなに幸せな家族なのに、私が小さな頃から「本当の家族は別に居る(血縁上は間違いなく家族)」「自分には別の名前があるはずなのにな」「(実家に居ても)帰りたい」とか思っている時点で、他人との幸せを築くことが難しいのはよく自覚しているのです。
仮に結婚出来たところで、彼らと同じような幸せの形にはならないとわかっています。

式に呼んでいただいて、それぞれの幸せの形を見せてもらって、最高に美しい彼らの特別な歴史的瞬間を共に目にさせてもらえることはとても光栄なことで有難いことに変わりありません。
これからも彼ららしく更なる幸せを広げられるよう祈ります。

【それぞれに合った人間関係の作り方】

人にはヒトの乳酸菌。というように人にはヒトそれぞれの幸せの形やご縁なる機会が必要に応じて起こります。
私はそれに対して必要以上に逆らうことはしません。
何故ならそうなるように運命はチョチョイと作られているからです。
例えその運命に逆らったとしても、今回のように自分に必要な場面でまた同じことが起こり得るからです。
体調をきたす程の場合は、どちらにせよ約束したって会えないし、当日キャンセルすることが目に見えています。
だったら、無理せずきちんとお断りして、来るべき時に万全の体調で応じた方がお互いのためですよね。

親には「年齢を重ねる毎にご縁は少なく薄くなっていくものだから、今の内にたくさん友人を作りなさい」と言われたことがあります。
そんな 数打てば当たる ようなことを言われましても。
薄っぺらいご縁も、重すぎるご縁もすぐ切れちゃう。
お互い丁度いい関係でいられる人がひとりでもいたら、それは結婚よりも最高に幸せなことじゃないでしょうか。

私は好きな人も苦手な人もすべてなるべく忘れるようにしていますよ。
ふとした時に思い出したり会いたいと思った方が連絡すれば良いし、お互いに必要なタイミングであればとんとん拍子で会うことになるし、逆もあります。
それでも細く長く繋がっている人が、自分とご縁のある人です。
無理のない付き合いをしていきたいですね。

お題「捨てられないもの」