過去には一緒にいて楽しかったはずが、それから何年も経つとチャンネルの合わない人になる現象に名前はついているのでしょうか。
「銀河鉄道の夜」を読んだ時も思ったこと。
人間関係とは「その時たまたま一緒に乗り合わせた人で降りる駅はそれぞれ違う」のだと。
会いたく思っても、お互いに色々な事情があって会えないことがある。
それは今会うべきでないということだ。
パートナーと私もお互いの今までの状況や気持ちを聞いていて学んだことでもある。
「会いたくても会えない状況」は自分の預かり知らぬところで起きていることが多い。
会うべき時に会うようにセッティングされているので、その時まではどうやっても本人同士も会う気分になれなかったり、諸事情により会えなかったりする。
私にもちょくちょく連絡をくれる友人がいる。
それはありがたいことだ。
しかし肝心の私が全く会いたい気持ちになれない。
正直、時間は作れるはずだ。
でも会いたくはない。
原因は過去へ遡る。
友人は私に好意的だが、その好意は「利用目的」が大半であり、薄いものだった。
当時の私にはそれが好意だけだと思い込めていたので、普通に嬉しく感じていた。
だが、その内違和感は募っていく。
4人でよく遊んでいたと思っていたのは私だけで、実際は私抜きの3人で遊んでいたことが多かったようだ。
私にその連絡は来ていない。
つまり仲間外れにされていたのだ。
その会話を目の前で何度もされた時の疎外感、孤独はその子たちに理解されないから私の目の前で話が出来るのでしょう。
果たしてそれを今も「友人」と呼んで付き合うべきだろうか。
現在の生き方も状況もそれぞれ違う。
確かに違うからこそ面白い話は出来るだろう。
ただ、そういう経緯を思い出すと中々会いたいと素直に思うことができない。
手放すことや許しが必要なこともわかるが、自分を守ることも大切だ。
経緯を抜きにしたところで、メッセージの返信を考えるだけでも心身共に疲弊していくことが自覚できる。
別件で、唯一連絡を取っていた前職の人についても。
相手が連絡できる状況だと私もわかっているし別の返信は早いのに、約束の返事が数週間〜1ヶ月待ちで、会っても話題が前職の愚痴なのだ。
別の話題にもしたけれど、何故かいつも前職の愚痴へ話が戻ってしまう。
3年はなんとか気長に我慢しただろうか。
しかし流石に疲れてきたので疎遠となった。
今は新たに出会った、分野も年齢も国籍も違う人たちと楽しく過ごせている。
それにより新たな目標も心のバランスも取れてきている。
話を聞いてみると皆ひとりが好きな人で、友人も少ない、いないと言う人が多い。
なのに他の人とはいかないけど初めて私とお茶や食事に行けたとか、深い話をそれぞれしてくれるのは、友人とまでは呼べなくてもほんの少し信頼してくれているんじゃないかと私は感じている。
そうなるのはお互い自分の仕事に(ジャンルはバラバラ)誇りを持って一途な方々だからこそ深い表現の話が可能でもあるのだとも。
悲しかったこと、悔しかったこと、苦しかったこと、寂しかったこと。
私が感じたことを他人にしないよう気をつけながら生きたい。
風邪もコロナも心の痛みもなるべく私で終わらせたい。
自分によって他の人に同じような体験させたくないから、会うなら少人数で相手に歩み寄る努力を。
そして大人数ならば内容は薄くなるけれど皆が知っている話題にして置いてきぼりをしないように。
私に出来ることをして生きていく。
以前の私はお人よしだったからというのもあるけれど、今は角が立たぬよう自分の気持ちに従って断ることにしている。
そうして生きていると人間関係は縮小していくのだが、心にも時間にも余裕ができるし、できた余裕を今そばにいる私の大切だと思う人たちに目一杯注ぐことが可能になる。
傷ついたけれど、恨んでいるわけでもなく、会いたくない。
ただそれだけの話でした。
それぞれが幸せに過ごせますように!
パートナーからの学び
パートナーこと好きな人から色んなことを学びます。
本人はそんなこと思ってもいないみたいだけど、私にとってはとても有難く、ハッとさせられることが多い。
私が気付いて、意識するようになって実際に役立っていることを書き出しておこうと思う。
⚫︎決められたことから離れれば離れるほど自由に幅広く発想できて楽しい
⚫︎他勢の意見は参考程度にして実際は目の前の相手の反応を意識して観察する
⚫︎自分の意思を尊重するときと他人の意思を尊重するときを別々に使い分ける
⚫︎他人の意思を尊重するときは寄り添う
⚫︎誰も置いてきぼりにしない
⚫︎置いてきぼりになりそうになっていたら迎えに行く
⚫︎気持ちは伝わる
⚫︎「誰かが」ではなく「私が」どう思っているかを伝える
⚫︎伝えることや相手の言っていることが理解できなくても諦めない
⚫︎諦めないけど嫌がるようなことはしない
⚫︎「相手が嫌だろうからしていないこと」もわざとらしくならぬよう伝える
⚫︎幸せなときの「幸せ」も伝える
⚫︎伝える時の気持ちは伝わるから「お互いが大切」である気持ちを忘れずに
⚫︎なるべく触れ合いながらお互いの中身と対話する
⚫︎もしお互いの譲れない部分があったら「ここからちょっと待って」のサインを決めておいて、そのサインが出たら気持ちが落ち着くのを待つ
⚫︎相手は私の思うように変えられないし相手のなりたいようにしか変わらない
⚫︎「相手に変わってほしい」と思ったときは自分と向き合う必要があるとき
⚫︎その状況に耐えるのではなく、相手によりブレる自分が「どっしりと山の如く揺るがない存在」になったときにその気持ちは消える
⚫︎でも嫌なことは伝えておく
⚫︎お互いが別々の人間で別々の人生を歩んでいることを忘れない
⚫︎一緒にいたいときに同じ時間と空間で楽しく過ごせるようにしたい
他にもたくさんあるけれど、私はパートナーが心から好きなようだ。
それがとてもよく表れるのが夢の中。
私の夢の中の人々はとてもぼんやりとした存在が多い。
例えば夢の中で「Aさん」と私が呼びかけている人がいた。
目覚めてから考えてみると「Aさん」と呼びかけてはいるものの外見は「Bさん」で私は「Cさん」と思い込んで声をかけていたことがあるほどだ。
しかしパートナーに関してだけは私の中で存在が一番ハッキリしている。
夢でも現実でも何度色んな人から声をかけられようとも「パートナーがいるので」と断っている私がいるのだ。
今朝の夢でもそうだった。
それだけ私の中でのパートナーの存在は大きく、確固たるものなのでしょう。
パートナーからは本当に学ぶことが多い。
再会できて、お付き合いできて、幸せだ。
そろそろパートナーの展示があるからお願いされてた虫除けリングを作らねば。
展示には様々な人が来ます。
中にはギャラリーストーカーと呼ばれる存在がいることも。
今はギャラリストさんが守ってくれるところも多いのでそうそう大ごとになることはないかと思うけれど、念のために。
少しでもパートナーのお守りになることを願って。
火の鳥と虫の声
私語厳禁読書専門カフェにパートナーと2度目の訪問。
そこではもちろん自分で持ってきた本を読んでもいいし、お店にある本を読んでもいい。
パートナーはスマホで何か調べ物をしたりメニュー(読み応えのあるこだわりメニュー冊子)を読んでいました。
私は、小説という気持ちじゃなかったので漫画にします。
珍しく手にしたのは手塚治虫さんの「火の鳥」でした。
今まで手塚治虫さんの作品をまともに読んだことのなかった私。
読み進めては衝撃に次ぐ衝撃を受け、その日の内に「火の鳥全巻セット」をポチってました。
パートナーからは「好きそうだとは思っていたけど全巻揃えたんだ。あなたらしいね」と言われました。
読むかはわからないけど1、2巻をパートナーにも貸し出し中。
今私が読んでいるのは、巻数も後半に差し掛かっているところ。
読めば読むほど、手塚治虫さんの知識量の多さや表現力の幅広さや工夫に感服するばかり。
最初は聖書の話かと思ったけど、読み進めるうちに西洋の話を彷彿とさせてきたり。
世界的に有名な絵本にもなっている物語を絡めてきたのかな?と思わせたり。
と思えば日本書紀や歴史、宗教、道徳についての争い、宇宙まで飛び出ての輪廻。
時空を歪めては繋げていたり。
あれ?この物語の構成の仕方はあの漫画にも似ている、なんて気付きもあったり。
こんな感じで表現の方法がいちいちおしゃれなのだ。
読む方にも相応の知識があると余計に楽しめて、考えさせるように構成されている。
いつの時代に読んでも古くも新しい芸術的な本だ。
今だからこそ私は「あの物語を絡めている」と気付けるけれど、昔は難しかっただろうし。
それにまた数十年後にこの火の鳥を読んだら、数十年分の知識が増えているわけだから、現在気付けなかった新たな発見が出来るんじゃないかと今からワクワクしている。
現在、アニメ化に映画化もされているこの「火の鳥」。
昔から人間が繰り返し続けていることに、今こそこの本を読んで立ち止まって向き合い考える時なのかもしれない。
私はこの本の「虫ヴォイス」という生前の手塚治虫さんが語った言葉の再録が好きだ。
この人はとにかくアイデアが溢れて実行したいタイプのようで本当に止まらないのがわかる。
病気で動けなくなっている期間があるのも納得してしまうほどだ。
私も含めた座り仕事の人たちは特に無理は禁物だと思うし、動くことや身体を意識しなきゃ危ないのだ。
しかし虫ヴォイスなんてタイトルも洒落てる。
虫の声って、日本語を母語にする人たちとポリネシア人にしか聞こえない。
他の言語を母語にもつ方々には虫の声は全て「雑音」に分類されるのでうるさいみたい。
それは音を処理する脳の中でも、日本人は虫の声を言語野で認識するからだとか。
昔の日本人は虫に伝言を運んでもらっていたなんて話もありますね。
それって陰陽師とかに出てくる魔法のような術みたい。
式神とかは確かに虫や鳥を使っていた気がします。
京都の神社へ行ったときも、神主さんのお話を聞く機会があって、京都で起こった怪異事件を陰陽師がどのように対処したのか教えてくれました。
話の仕方も構成も手伝ってかもしれないけれど、妙にまとまっていたから納得でした。
とはいえ、きっと皆元々持っている力なんだと思うけれど、正しく力を使う方法を知っている人が少ないということもあるのでしょう。
そういえばこの前パートナーが気になるカレー屋さんがあるっていうから行ってみたら、スパイスを扱う魔女さんのお店でした。
色んな種類の魔法を使う魔女がいることや「私は特にカレーが好きなわけではないの。単に日本人がスパイスを難なく受け入れられそうなものがカレーだったから、その時期によって身体に良い影響のあるスパイスを取り込んで欲しいだけ」と言っていたのは衝撃的だった。
趣味を超えて夢中になれるものがあるならなんだって良いと思う。
私も昨夜ついつい実験に夢中になって制作してたら夜中になってた。
ほどほどにしないといけませんね。
この世はアトラクション
画像は今日見つけた金木犀。
良い香り。
葉っぱには空の色が映っている。
ここ数年の運命の流れの速さを感じることが多い。
展示にしろ、そこからのパートナーとの再会、新しいことを始めたこと、受賞したこと、その後のこと諸々。
世界的には戦争が次々に起こり、一方で平和についての討論、動きも始まっている。
私は自然災害についても、戦争についても、昔の言葉を使えば「口減し」だろうと考えていた。
ただでさえ世界的に人口が増えているわけではないのに、ある一定の人数になるまで、更にそうされている気がしてならない。
地球を楽園にしたいけれども、私ひとりに出来ることは限りある。
寿命もあるからね。
とはいえ、人が生きるってことは、マラソンのバトンのように誰かにほんの少しのヒントを渡すことくらいだと思っている。
だから私が生きている間でも亡くなった後にでも何かしらその人にとって良い影響が誰かに出たと言うのであれば、もうそれで生きた意味にはなっているのだ。
私はたまに「あの時あなたにこう言われたからこうしたんだよ」なんて聞いては驚く。
と同時に、この人にとっていい方向に行けるヒントになったのなら私はここで終わっても大丈夫だとも思うほど幸せな気持ちになる。
人生はアトラクションだから使命なんて特にないのだとも知っている。
それに最近になってやっと自覚したこともある。
⚫︎母の作ったご飯を食べた時
「私はこの人の作る愛情のこもった美味しいご飯を食べたくてこの人の元に生まれた」
⚫︎身体は地球上での借り物でありパートナー。しかし強くはないので
「この料理はこのくらいの量なら食べられそう?」と胃腸と対話して共存している。
無理はさせない。
⚫︎ものづくりをしている時
「私は表現者になりたくて地球に来たんだ」と何度も何度も思い出す。
⚫︎パートナーと再会した時、一緒にいる時
「この人が私の最後のパートナー」
⚫︎そして誰かが本をめくった時
「私の地球での人生はこれで最後」と理解し、ここからを心に留めて楽しく生きようと考える。
私の地球での生活の土産話を楽しみに待ってる人たちがいるからね。
どんな生き物にしろ、生まれた瞬間終わりに向けて生きている。
その中でたくさんの始まりを体験し、自分の中の純粋な感覚や思い、エゴの思考に向き合い、最善のパラレルをひとつ選び、他の選択肢のパラレルと並行して進む。
自分も他人も尊重し、自らチャレンジして地上での冒険を楽しむ。
いつまで生きられるのかわからないからこそ、今を生きて、環境に感謝する。
この世はアトラクション。
新しいことにチャレンジして出来なかった時の悔しい気持ち。
出来なかったことが出来るようになった時の嬉しい気持ち。
中々叶わない夢を諦めずに続けていく気持ち。
続けていたら数十年かかって花開いた時の気持ち。
その気持ちに気付いて、体験をまた続けていくこと。
その気持ちは、自身にしかわかり得ない。
他人に説明したところで、全く同じ感覚で共有することはできない。
自分は自分の気持ちを心に聞き、包み込むこと。
人には人の気持ちと人生があることを自覚すること。
例え家族やパートナーでもそれは個々で違うことを体験しに来ている。
「一緒にいるこの時間」は共有できるが、気持ちや感覚は同じにならない。
ただし、それぞれのパターンなどを知って近しいものにするための情報共有、寄り添う気持ちは必要。
全ては加護されている。
やりたいことがあるなら、続けることだ。
それより楽しいことがあればそちらを続けることだ。
お金はあの世に持っていけないのだから、続けられる楽しさを見つけた方がいい。
気力がなくなるまで、夢中になって続けられることを見つけることだ。
それこそ最高のアトラクション。
夢中になる間、生き物の時間は早くも遅くもなるし止まったりもする。
つまりそこに生命力を費やすとき、時空が歪む。
好きなことをして生きている人を思い浮かべてほしい。
イキイキとしていていつまでも若々しく見えるのはそういうことだ。
整形をするのもいいけれど、そういう生き方も大切ではなかろうか。
なんたって、亡くなったらこの身体は連れていけないし、地球へお返しするものなのだから。
地球の肥料はなるべく化学物質が含まれない方が喜ばれるんじゃないかしら。
夢の話
私はよく夢をみる。
夢って本人たちの知識でコーティングされているものなんだと思った。
それを更に誰かがコーティングしているのも感じる。
夢の中の出来事は大体、何か教えてくれている。
⚫︎鳥居をくぐる夢 7月25日
道端のゴミ拾いしていたら、おばさまが3人くらい声かけてきて、その中の一人に手を引っ張られて一段下に(とはいえ結構低い位置)小さな鳥居がいくつかあって「そこを潜ってきて」と言われる。
下には降りられたものの、鳥居が小さくて一つしか潜れず、何とか横から出てみると、そこにはこの場にお詣りにきた人たちが沢山いた。
まずはその鳥居の真横にあるお稲荷さんからお詣りしたいのに、今度はお賽銭箱が高い場所にあって何度100円を投げても入らない。
周りの人の助言により、大きくなった100円玉をフリスビーのように数回投げてみるとちゃんと入った。
その後、本殿の神様にお参りしようとした。
⚫︎増える夢 8月1日
「あと○万円かー」と思っていたら急に一桁増えた夢を見た。
パートナーをよろしくだって。
パートナーの後ろの人たちの助けだろうか。
⚫︎スマホの充電器を借りようとする夢 8月14日
スマホの充電器を借りようとしているところで、大学の先生みたいな人たちが貸してくれて先生が「あまり自分を攻撃しないでね」と頭を撫でて優しく諭してくれた。
⚫︎島に暮らす夢 8月15日
夕方から夜にかけての時間。お寺のような場所へ荷物を運ぶ。
辺りはもう薄暗く、波の音が聞こえるだけだ。でも絶壁だから海へ降りることは出来ない。
全て真っ白な空間で、ドアの向こうには誰かいるみたい。ドアの手前の階段脇の壁づたいに長椅子があり、人が並んでいた。私がここにいることは良くないみたいだったので、階段を降りようとする。でもただ降りるのは面白くないから、自分で工夫して面白く降りようと試みる。足を階段に滑らせるようにして滑り台のように降りる。だんだん楽しくなってきて、後ろの降りてくる二人組のおじさんたちの視線を受けながらも私は階段を滑り降り続ける。それをしている間に私は小さな子供になっていた。
⚫︎お菓子工房で働く夢 9月10日
これから私は山奥のお菓子工房で住み込みで働く。
まずは全員に挨拶して周り、どんなお客様が来ているのかも教えてもらう。
働いているのは美大卒の人が多いようだ。
ベッドで寝られることになったが、無愛想なお兄さんが布団を持ってきてくれた。
「ベッドがあるから・・・」と断るとさらに無愛想になる。
誤ったものの、何だか悪い気がして外へ追いかけて
「ベッドの上に敷くから」と言いに行くともう布団をしまい終えていた。
外は雨。
他の従業員の方も歩いていた。
「あの子誰?私まだ挨拶されてないんだけど」とかみがピンクの女性に言われる。
無愛想な男性が「ああ、お前いなかったから」と返事をする。
私が大きな声で挨拶をするといつの間にか女性の後ろへ一列に従業員が並んでいて、それぞれ自己紹介をしてくれた。
それから別室へ案内されると、そこではこの場で作ったお菓子とコーヒーが飲めるらしい。
全て手作りでとても凝っていた。
私は「コーヒー飲めないけど、ここのならのめるかな?」とコーヒーを淹れている方に聞いてみると「飲んだことないなら、やめておいた方が良いんじゃないか」と言われる。
残念に思いながら、今度はカウンターに座り、ガチャガチャの玉のようなものに入った小さくてクオリティの高いクッキーをもらった。
一つ一つを手に取ると私はハッとする。
「これは小さな地球だ・・・」
食べる度に感動で涙が勝手に出てくる。
泣いていると目の前の従業員たちから「感受性が高いんだね」みたいな褒め言葉をもらった。
⚫︎夢の中の私の言葉 9月29日
オドオドする子に適当な命令をする人がいたから
「皆他人のことで意地悪しないで、自分は今何がしたいか、それをただ実行すれば良いんだ。それはしたいだけすれば良い。そしたらとても楽しいよ」
と自分も実行して女の子たちと笑い合っていた。
⚫︎山の頂上へいく夢 10月2日
大人の友達の家に猫と遊びに行った。
猫は私には噛まないけど、周りの人たちにはちょっと不機嫌になる。
現地の男性が観光スポットの山を案内してくれるという。
私「まだ朝の四時だよ?」
男性「今が一番景色が良いんだ。その代わり、別の観光スポットは時間的に無理」
ちょっとだけ見たくて出かけてみると
外に舞台があり、その壇上にはスピーチ台とスクリーン。
その台の向こうにはさっきの猫が箱に入って不機嫌そうにこちらを見つめている。
「あの顔はさながら学校の参観日に親が来てめっちゃ写真撮ってくる時の子供のような顔だ」
と夢の中の私が言う。
ギャラリーの店長が「二人に渡すものがあるから受け取って」と私と友人に分厚い封筒をくれた。
何故かよくわからないけど受け取っていいものだと思ったので二人とも快く受け取る。
今度は山の上にいた。
山のうえのお土産屋さんを通りかかるとお店の人からお礼を言われる。
「お菓子をいただきました。ありがとうございました。」
私は急に何のことかわからず、人違いかな?と思って会釈をしてからカフェに入った。
山のうえにはいろんなお店があって、中でも素敵な景色が見られるカフェがあるという。
私は何故か車椅子に乗っており、カウンターの椅子が飛び出ていて邪魔をするのでなかなか前に進めないでいた。
周りの人に手伝ってもらい、何とかそこを抜けると真っ青な森が見える山の頂上のカフェのおしゃれな山小屋のようなテラス席だった。
渋い木材の長椅子やテーブル、ふかふか過ぎるソファやレトロな装飾の椅子もある。
私たちが来る前に誰かがいたのか、テーブルにはすでに食器が置いてあった。
その中から、友人は手にした兎の湯呑みにとても感動していた。
⚫︎龍の雲を見た夢 10月9日?
曇っている日。
空を見上げると、3本の白い雲が天に昇っていくのを見た。
私は「あれが龍の雲かなー」と見つめている。
すると急にその雲がまとまってこちらに向かってくる。
8本の龍の首を持つ龍がこちらに飛んできたのだ。
起きてから思い出してみても全然怖くなかった。
何故ならその龍は厳かながらもお顔がぶちゃかわ犬のようだったからだ。
もちもちしていた。
⚫︎大量のうさぎと友人がお嫁に行く話 10月16日
パートナーと緑多い田舎道を散歩していると、下に川通る橋に差し掛かった。
橋の片側には長屋が続いており、河辺にはその裏側が見える。
反対側には森が見える。
川の上側には行き止まりの道というか、芝生で出来た広場があった。
ふと空を見上げると天使がラッパを吹いているような形の雲がたくさん右側へ流れていく。
それをスマホカメラで撮影していると「見せて!これどうやって撮っているのか教えてください」と女の子に言われた。
説明が難しいから「じゃああの長屋の後ろ側の壁の中にウサギを見つけてごらん」というと女の子は一生懸命探していた。
私は長屋の看板にうさぎの写真を見つけてしまい「そういうことじゃないのになー伝わるかなぁ?」と不安になっていると芝生広場が騒がしくなる。
何故かうさぎの大群が走ってくる。
まさかと思って橋の上で見ていると、うさぎのは手前の方で止まる。
それより大きなものがどんどん近づいてくる。
最初はうさぎかと思ったが、それが仔牛になり、最終的にぶちゃかわ犬が出てきた。
足がとても短く茶色で顔周りの毛はふさふさ、瞳がクリッとしている。
触れると、泥だらけ。
橋を渡り切った時、私はいつの間にか学生になっており、4人組で帰宅途中だった。
そのうちの1人、スラッと背の高く三つ編みをした少女はその犬と暮らしたいと思っていた。
遠くから誰か男性の声で「そりゃー中山先生の家にお届けする仔牛と犬だよ。寂しい先生だからね。」と聞こえた。
中山先生はおじさまでお金持ちだけど伴侶はおらず寂しいようで、仔牛と犬を飼って暮らそうとしていたようだ。
それを知った背の高い三つ編み少女は考えた。
「私は中山先生も好きだったし、仔牛も犬も可愛いから、先生のところへお嫁に行こうと思う」と光の速さで即決していたので私は驚き「本当にいいの?」と聞く。
少女は「欲しいものは欲しいうちに手に入れないとね!」と答え、私は衝撃を受けた。
私はお勝手の水道で泥だらけになったお皿を洗っていた。
泥だらけにしちゃう私は恥ずかしいのに、あの子はなんて輝かしいんだろう。と羨ましくも尊敬していた。
⚫︎時空をこえて会いにいく夢 10月18日
女の子二人と男の子一人と会って手を握り、私は皆の目を見ながら話していた。
「私ね、時空を超えて昔のあなたたちに会って一人ずつ話をしてきたよ」
皆そのことを瞬時に理解していて、嬉しそうだった。
男の子の部屋に皆でいると、突然家主が退室する。
不思議に思っていると、ベランダで女性と話し込んでいる。
トラブルがあったのかと思い、皆でプライベートに配慮し、なるべく見ないように彼らに背を向ける。
しばらくすると女性が部屋に入ってきて、皆で着替えるのを手伝うことになる。
私は部屋の全カーテンを閉めるように指示する。
そこへタイミング悪く男の子の弟が犬たちの散歩から帰ってきた。
私は部屋の中が見えないようにカーテン下に潜り、弟さんへ事情を話に行く。
3、4匹の犬がいた。
1匹は親犬、あと3匹は仔犬だった。
私は黒い仔犬を触らせてもらったというか、こっちに飛び込んできてくれた。
弟さんは気を利かせてもう一度散歩へ行こうとする。
私が仔犬を返そうとすると、手の中で透明のガラスの犬に変身していた。
でも鳴き声はするので生きているようだ。
首輪をつけなきゃいけないんだけど、どうもちょうどよくつけられない。
犬の鳴き声もちょっと苦しそうなので解こうとするも自分では解けず、男の子のところへ行って解いてもらう。
「出来そうなのにねぇ」と言われ、私は申し訳なさそうに照れていた。