あおりんごの凡ぶろぐ

美大を卒業した後、色々な経験を経て、現在は個人事業主&作家活動中

種蒔きをして生きること、勝手に育っていくもの

最近、何にも困ってないのだ。
自分のことを大切にしていたり、他人のことも尊重して生きていると、周りがとても優しく感じる。

驚くことばかり起こっているけど、特に引き寄せてもいないし、私の周りを動かしてくれている存在がいることは自覚しているし、日々感謝している。
起こるべくして起きているように見えるけど、コントロールされている。
私としては「急に何⁉︎」となるけど、実際は急ではなかったりする。
全ては自分の知らぬところで計画的に進んでいる。
私を守ってくれている方達が私を不幸にするわけないので、信じて身を任せて生きている。
「自分にも周りにも良いこと」を心がけて生きると、全てではなくとも巡り巡って自分にたまに返ってくる。

心配とか、怖れとか、悩みとか、堂々巡りを好きでしているなら良いけど、それが嫌な気持ちなら希望的考えに切り替えて「これからどうするか」にシフトして出口へ向かえばいい。
大好きな食べ物と温かい飲み物用意して、身体を温めて、時計を見ないで、自分だけの時間をつくって心身ともにリラックスしよう。
逆にお腹空かせて冷たいものばかり飲んで、身体冷え冷えで、時計や他人ばかり気にして動いていたら、心身共に不健康になってゆく。
これは漢方養生の本にも載ってたこと。
身体の影響は心にも響いていくから気をつけたい。

ずっと抹茶や緑茶を飲んで生活していたんだけど、最近は大好きなアールグレイティーに変えてみたところ、効能的に身体も温め便秘も解消したので自分には合っていたことに気付いた。
毎日身体が軽い。
でも他人にも合うかはわからないのでオススメして良いのかは謎。
試してみても良いかも。

先日は、大学時代からの友人ギャルTと韓国料理を食べに出かけた。
お互いジャンルは違うがオタク気質なので話は合う。
ところが今回、話を進めれば進めるほど小さい頃から誰に話しても受け止めてもらえなくて諦めていたような話が出来た。
ギャルTは小さい頃から“人生3回目のように感じて生きてきた“そう。
確かに私からすると学生時代からのTには何処か気品や落ち着きや他人を敬うという姿勢が見えていた。
私はというと小さい頃から“実家にいるのに空を眺めては「帰りたい」と思って生きていた“のだ。
で、お互いそれが「わかる」。
全てが腑に落ちて、譬え話を交えてお互いの経験や思考を深めていった。
とても興味深くて話が止まらなかった。
それぞれ全く違うのに、今までの孤独感を凝縮して共有できたように感じた。
なんとなくそれって戦友みたいだと思った。

私には色んな友人知人がいるんだけど、それぞれ話せる内容が違うとは思っていた。
AI同士や専門家同士の会話でも度々起こることだけど、お互いにのみ通じる言語や内容がある。

人との付き合いは常に対等で居たいので、年齢性別関係なく同じ立ち位置、視点でいられるように心がけている。
それには沢山の知識や、言葉選び、相手をよく知り、解釈違いがないかを確認し、お互いの会話のステップアップを感じながら興味深い会話のキャッチボールをどこまで続けられるかを楽しむ必要がある。
コミニュケーションは、お互いが楽しくないと続かないもの。
自分だけでは成立しないし、お互いの会話の形に沿った形の球を投げないと受け取めることができない。
そうやって誰かとの時間も、大切にするようにしている。
目の前の他人は、私自身の形を知る手がかりでもあるから。
受け入れて、見つめて、大切に扱う。
そうすると自分が見えてくるから面白い。

私は自分の顔が見えない。
他人の顔も覚えない。
他人は自分の写し鏡というけれど、私は鏡とは思ってない。
でも、他人がいないと自分を見失うのはよくわかる。
それは他人軸とかそういうものではなくて、周りの環境や生き物の中身の形を理解しないと自分の形がわからなくなるって話。
今はそれを絵で表して作品にしているところ。

作品を自由に作ることが出来るのはとても楽しい。
今までのスキルを総合しても組み合わせても新しく学んでも本を読んで実験してみてもどんな表現も可能だ。
それを先日とあるパーティーの舞台で披露させてもらう機会を与えてくれる人がいた。
ずっとお世話になっている人からのギフト。
それも私を守ってくれている存在たちがアシストしてくれたからもらえたものだって知ってる。
自分だけの力ではないけど、自分の続けてきた土台があってこそだってことも知ってる。
その土台も色んな人が支えてくれたから出来たものだってことも知ってる。

そして初めて「私は自分の作品の展示がしたい」と公言した。
聞いていたのは主要な人物2人だけだったけれど、これは自分でも驚いた。
自ら公言したのは初めてだったから。

個人事業主になったからというもの、友人から声をかけられて大手デパートにおまけで作品を展示してもらったり、某有名なデザインイベントに作品を大々的に展示してもらったり、色んな方から特注品の注文があったりしたけれど、基本的に自由でいたいのもあり、あんまり広告もしなかったし、そんなに公にすることでもないかなと思っていた。
ファンの方からは「何故それだけ作品も技術もあってそんなにフォロワーが少ないのか理解できない」と言われる始末である。
でも私はそんなファンの方がほんの少しでもいてくれるだけでもう十分だったりする。
誰かに認められるのはとても嬉しいことだけど、それがやりたいことじゃない。
コンペで賞を取ることでもない。

今世で私がやりたいことは「表現者として生を全うすること」だけだ。
それにはもちろんある程度儲けないといけないんだけど、それもなんとかなると知っている。
もう決めたことだもの。
一生やることだもの。
これはブレたりしない。
誰にも渡さない。
自分だけの大切な宝物。

表現したところで作品というものは自分だけのものではないこともわかっている。
寂しいけれど表現したものは誰かの元へ旅立つ。
それは誰かを癒したり、ふと自分を取り戻したりするものとなる。
私はそんな風に作品による種蒔きがしたい。
芽が出るのは私が生きている内かもしれないし、そうでもないかもしれないけど、それも特に気にすることでもないんだ。
既にその影響はいくつか目にしたから、それで十分だなと思う。
これからも多少のそういうものは見えるんだろう。
それって「私のおかげ」とかじゃなくて、誰かが私から勝手に受け取って勝手に育てたものだから毎度「へー!そうだったの!?」と驚く。
だって自分のあずかり知らぬところで勝手に育ってるんだもの。

私もきっと誰かから受け取ったものが沢山あって、今がある。
これからもそう。
そうやって色んな栄養を受け取って、それぞれが自分の中で大切に育んでいくものがある。
時間をかけてゆっくり大きくなる。
愛しいものたち。
私もこれからどうなるのか楽しみでしかない。