あおりんごの凡ぶろぐ

美大を卒業した後、色々な経験を経て、現在は個人事業主&作家活動中

COVID-19感染によるコミニュケーション変化

9月初旬、私はコロナに罹りました。
それによって受けた影響について書こうと思います。

コロナ禍で遠出するなど、数年間考えたこともありませんでした。
しかしふと思い立ち、新幹線を使って遠方の美術館へ一泊二日、ひとりで行きました。
とても充実した旅でしたが、その二日間のうちにどこかで移ったのでしょう。
帰宅して二日後に頭痛に発熱。
症状が出る部位も症状も毎日目まぐるしく変化するもので、頭も体もついていけませんでした。

🧨花火で例えると
インフルエンザ:打ち上げ直後派手な花火→徐々に消える。
COVID-19:打ち上がってから形態や色が変化しまくる花火。

【症状の変化】

頭痛いな

鼻の奥ちょっと痛いかも

39度の熱、頭痛、眼の充血

平熱、頭痛おさまる、眼の奥と喉に少し違和感

思ったより眼の奥が痛み、喉腫れる、少し咳出る

眼の奥の痛みと喉の腫れおさまる、咳出過ぎて苦しい

咳おさまる、鼻の奥が痛くなる(カビ臭い匂いしかしなくなる)

腹下し、嘔吐、嗅覚(カビ臭い匂い消える)

倦怠感、嗅覚なくなる、咳が止まらなくなる

味覚なくなる(未来の栄養食が何故四角く味気ないものなのか理解した。味覚も嗅覚もないと食事が楽しくないので不味くても栄養のあるものを優先して食べようとする。)

甘さを感じる(キャラメルがぼんやり甘い)

苦味を感じる(コーラがとても苦い)、咳を止めようと歯を食いしばる癖がつく

塩っぱい(ポテトチップスの塩を感じるがじゃがいもの味はわからない)
歯を食いしばる癖による頭痛

徐々に嗅覚と味覚を取り戻し、一週間後には回復

ただここで身体だけでなく問題があったことを振り返ってみる。
それは文字と会話についてだった。

コロナに罹っていたとき、私は家にひとりだったため、色んな人から生存確認ということなのか毎日のように連絡が来た。
更に海外からも英語で連絡が来ていたのだ。
それに応答する気力が全く出なかったのだ。
母国語でもかなり億劫。
反論すらできなくなっていった。
「本当は違うのに・・・でももう相手を気遣った言葉を考えることすらできない」
母国語ですら返信できないというのに、外国語なんて翻訳から更に変なところがないかの確認までしないといけない。
でも仕事も含まれる連絡だったので、これだけでもと必死で文章を作って送った。
体力の消耗と共に、脳を動かすこともままならなかった。
これがコロナによる倦怠感というものだと身をもって知る。

毎日連絡をくれたり、症状も落ち着いたからと外出しようと誘ってくれる友人がいたけれど、全て断っていると友人からの連絡は減り、そのうち離れていった。
自分が何故母国語ですら文字も会話もラリーが続けられなくなっているのかも理解できていなかったから、友人にその訳を話すこともできなかった。

あれだけ心配をしてくれて、気を遣って誘ってくれたのに、全てを拒絶したのは私だ。
仕方ないと思っていた。
でも「今この問題を解決しないと進めない」と色んなところから聞こえるようになってきた。
もちろん連絡を一切断つという選択もできた。
だけど、何か引っかかり続けている。

問題を解決しなくても「自分の身に何が起きて、どうしてこうなったのか」自分と向き合って考えてみた。
すると、コロナによって、体力を消耗し、考える余裕もなくなり、少なからず脳にも影響していたことがわかった。
人それぞれ症状が違うとは聞いていたけれど、私の倦怠感は特に言語野に出たのか、誰かとコミニュケーションのラリーを続けることができなくなっていた。
今までの自分と同じように、相手によって言葉を変え、選び、気遣い、楽しませることが出来ない。
コロナによって私の他者とのコミニュケーションの難易度が格段に上がっていったことはわかる。

今更元の関係に戻ることは出来ないかもしれないけれど、それをなるべく詳細に簡潔に友人に伝えてみようと思えるくらいにはなってきた。
1ヶ月以上経ってやっとここまで回復したのだ。
どう考えても誰も何も悪くないし、お互いに心に何か引っかかったままではよろしくない。
久しぶりに連絡を取ってみた。
心配してくれたこと、外出のお誘いをしてくれたことに感謝し、何度も断ったことについての理由も説明した文章を送った。
一方通行になっても、返信が来なくても仕方ないと腹を括った。

すると思いの外、すぐに返信が来た。
色々と思うところがあったようだけど、今までと変わりなく接してくれるようだ。
謝ってもくれたけど、本当に誰も悪くないから謝らないでほしいことも伝えた。
人にはそれぞれの視点がある。
だから私の伝えたことが全てそっくりそのままのニュアンスで伝わっているとは思わない。
けれどもその中でも散りばめた気持ちが少しでも同じように伝えられたらいいな。

今回はたまたま、元の関係があったこと、きちんと向き合って説明する余地もあり、結果的に良かったけれど、全てがそうなるとは思っていない。
私も元々、他人と長時間過ごすことが難しい性質を持っているから、人間関係を保つことすら大変なのだ。

でも、今回の件で「愛とは何か」が少しわかった気がした。

今までの私は「愛とは思いやりである」「愛とは自身である」と思っていた。
今は「愛とはお互いに思い伝え合えたときに起こる現象」だと考えている。
それは家族でも友人でも恋人でも、形は違えど同じことなのだ。
人間が何故たくさん存在するのか。
人間が何故自分以外の誰かや動植物を愛しいと思えるのか。
ひとりだけでは「愛」が完成しない。
対象が必要なものなのだ。
もちろん自分自身を対象としても良いと思うけれど、そのときは自身も他人と捉えてのこととする。

人はひとりで生きられないものなのだとコロナによって知ることになったあおりんごでした。