あおりんごの凡ぶろぐ

美大を卒業した後、色々な経験を経て、現在は個人事業主&作家活動中

個を識別しなきゃ生きられないの?

人のお顔をあんまり覚えないあおりんご。
私は特段困ったことはないけど、周りは困ってるのかしら。

【 顔のない世界 】


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相貌失認(そうぼうしつにん)と言う脳障害の一種なのだとか。
私は軽度なのか会えばなんとなく思い出すんだけど、会うことが2回目だったり、目を瞑ったり、後ろを振り返ったり、お別れした後は、雰囲気しか思い出せません。

ジョルジョ・デ・キリコの世界が好きなのも関係あるのかもしれません。
鏡を見ない限り、自分の顔すら思い出すこともないです。

昔友人にその話をした時「自分のお顔にコンプレックスがないからじゃない?」と言われてその場では納得したこともありました。
実際はコンプレックスどころか大して興味がないだけなのかも。

調べてみるとASDに多い症状のようです。
私は会えばなんとなく思い出せるし、表情や言動から心の機微は読み取ることは出来るのです。
出来ると思っているのは私だけかもしれないけど。
これも感覚差の1つなので、一生誰かと共有することなどないし、私はこの世界がとてもお気に入り。


youtu.be


Sub Urban の「Cradles」のMVの途中で顔のない白い人たちがダンスをするシーンがあるのですが、まさにあんな感じ。

お顔に興味がないと書きましたが、お顔の好みはあるのが自分でも不思議。
好きなお顔というものがあるのです。
これも私の感覚での美なので世間的に言う美的感覚に沿っているのかはわかりません。



【 絵で覚える 】


先日も友人たちと食事をしているときに数年会っていない友人の話題が出ました。
当然顔も思い出せません。
ですが雰囲気だけはなんとか思い出せます。
そこで友人がどういう漢字の名前なのかを教えてくれました。
私は漢字を一目見ただけで「いつどこで会ったどんな人なのか」を当時の映像を巻き戻してもう一度観るようにありありと鮮明に引き出すことが出来ました。

このようなことは以前も何度かありました。
実際お会いするよりも、画像や文章でやり取りをした方が蘇る記憶情報量が多かったです。

確か私が小学生の頃、家族で海外旅行へ行ったら先導する人が道に迷いました。
私はまさか迷ってるとも思わず、同じ道をグルグル回っているように見えている家族を不思議ながらもそのまま様子を見ていました。

実際その道を通った時、道路のど真ん中にあった屋台が、一度目はジュース屋さん、二度目アイス屋さんに変わっていたのですから、それに気付かないと別の道だと思う可能性もあるでしょう。
そのまま誰も気付くことがなくまた同じ道を通ろうとしていたので「どうしたの?さっきと同じ道だよ」とお店の詳細を伝えると驚かれ、未だにその思い出話をされることがあります。

学校で記憶力を試すテストのお勉強に関してもそうです。
教科書やノートの何ページのどの場所に何色の文字でどんな形で書いてあったことなのか、またはどんな絵なのか、と覚えていました。
他の方の記憶方法はどうやら違うようだと気付くのはもっと後のこと。

それが私にとっては日常的なことだったし、その時々のシチュエーションに合わせることは出来たので多分周りに「私が誰の顔も覚えていない」とわかる人はほぼいないでしょう。
毎日会うにしても日々摂取するものによって「その人自体の細胞」が少しずつ入れ替わっている。
数年会わないとなると、その間に全細胞が入れ替わっている上に、シルエットもお洋服の系統、趣味志向だって変わることもあるからわかるはずもない。
ただ変わらないのは癖・雰囲気・背の高さ・声・名前くらい。

だから私からするとお顔よりも名前の形の方が大切。
それがネット上の偽名であっても、私にとっては一番対象をイメージしやすいものなのです。

【 名前は最初の呪い 】

「名は体を表す」と言いますが、その通りで、私からするとお顔や体よりも名前の方が印象が濃いです。
印象、雰囲気、会話の内容、その全てを私は「名前」に紐付けていることが多いことに気付きます。

実は幼稚園から中学生初期あたりまで私は人の名前すら覚えていませんでした。
それもやっぱり興味がなかったのだと思います。
クラスの男の子に「ねぇねぇ」と話しかけてばかりいたからか「名前で呼べよ!」と言われたことがあります。
そんなこと言われましても覚えてないものは言葉にできず、小さい私の苦肉の策が「ねぇねぇ」だったわけです。
その後もそのまま名前を呼ぶことはなかったと思います。

自分の名前すら違和感を持って過ごしているというのに、他人は「自分の名前が自分を指し示す言葉」として受け入れられていることにも、言葉にすることはなかったけれど内心不思議で仕方ありませんでした。
私は自分の名前にも家にも家族にもずっと違和感を持って生きています。
もちろん好きだし、血の繋がった家族であることは間違いありません。
でも生まれてこの方、自分の名前が本当の自分を指し示すものだとは思っていません。

いろんな方が私に色んなアダ名をつけて呼ぶのも不思議。
どうしてそんなことが出来るんだろう。
私は飼っていた犬以外、他人に対してアダ名を自分からつけた記憶がない。
記憶にないだけであるのかな。

名前というものは呪いにも似ていると感じます。
その生き物が「何者か」という枠をつけ、これから出会う全てのものに紐付けられる主体にする行為。
それが最初に個を示す「名前」となります。
名は体を表すのですから、それは名付けに慎重にもなりますね。
特に日本は、どこの国よりも漢字での名には意味を見出し、画数で人生まで左右すると考えているところが特徴的ではないでしょうか。
中国もそうだったかな。
他の国では発音が難しいこともあり、自分で自分に好きな「外国名の呼び名」をつけるところもあります。
でも、第二の名前を作るのもちょっと違う気がしています。

自身の名前に違和感があると書きましたが 名前=自分 と言い切れないだけで、もちろん他人が私を指し示す言葉として認識しているし、気に入っています。
肉体と魂の名前が別々にあるような感じ。
この世では「個」が識別できないと生きることが難しいというのもユニークであり不便でもあると思います。
自分に見えているそのお顔が、他人の目や脳にも同じように映っているのかもわからないし、名前だって実は振動でしかないのにね。


今週のお題「試験の思い出」