あおりんごの凡ぶろぐ

美大を卒業した後、色々な経験を経て、現在は個人事業主&作家活動中

コミュニケーションはうまく出来なくて良い

おはようございます。
朝風呂は気持ち良いですね。
湯船に浸かりながら取り留めなく物事を考えることが好きなあおりんごです。
今回は考えをつらつら書いているだけなので、コミュニケーションについては後半半分を読むだけで充分だったかも。

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私は小さな頃から自分での選択ができる場面はあまりなかったように思いますが、皆さんはどうお過ごしだったのでしょうか。
この国では「協調性」「普通であること」が強いられていました。
私の両親も親戚もそういう世間体を気にするところがあるため、私の幸せを思っての行動でもあるとは思いますが、何度も不自由な経験をしました。
「どっちがいい?」と聞かれているけれど答えてほしい答えは見えていたのです。
一択やん!
そういう家庭や学校で育ち、社会に出ると急に「個性を出せ」「自分の意見を持て」と言われたり、またそれと反対の言葉を言われたりと、矛盾点がたくさん出てきます。

大人になってから思う。
日本の軍隊的なそういう教育ってどうなの??
コロナ禍により今は難しいものの、現代では海外旅行や短期留学、交換留学、留学は普通のことと思います。
そこで日本と違い過ぎる教育法も実感することでしょう。
先日も親戚のお子さんの話を聞いたところ、アメリカンスクールに通って、大学も語学系に進んだものの、自由さがアメリカンスクールと違ったのでやめたそうです。
オーストリアの先進的な教育方法とか見ちゃうと余計に日本でも最初から個性出せるように育てたら良いのに。って思ってしまうま。

教育者側からすると、個性溢れすぎると教育しづらいというところもあるんでしょうね。
お子様を預かる身としては。ということもあるでしょう。
日本社会では出る杭は打たれるのです。
これが良く働く場面もあれば、悪く働く場面もある。
多様性色の強まっている様なこれからの時代では、悪く働く場面が多くなってくる気がしています。

お絵描きにしても「空は青色、お日様は黄色」と押し付けるのではなく「空は黄色、お日様は青色」でも良い、そんなそれぞれの「好き」を否定せずに、尊重する世界になるようにしていきたいですね。
夜空や宇宙って真っ暗で怖いという人もいるけれど「よく知らないこと」は知ってみると実際怖くないです。
でも知らないことを知るという挑戦をするときには、ある種の気力が必要な時もあるのでそれが必要になるときまでタイミングを待ってても良いのかも。
私もどーーーーしても読めなかった本たちを今やっと読んで、考えて、理解できるようになっているのは今のタイミングだからだと感じています。
今このブログを書いているのもそういうタイミングなのです。
「可哀想」というのも、自分は可哀想だと思っていないのに、楽しいのに、可哀想と思われることがありますね。
例えば私に恋人がいないとか、結婚ができないとか、本当に余計なお世話だよー!
今の私に必要ないだけで、ひとりは確かに孤独だけどとっても自由で楽しいです。
それぞれの感覚の違いでもあるのでしょうね。
でも逆に「可哀想」と言われて「確かにあのときの私は可哀想だった」と涙が出たこともあります。
これは私が小さい時に自覚していなかった、その感情表現もできなかったような話をしたときに言われた言葉。
同じ言葉なのに、状況が変われば受け取り方が違うというのもまた日本語の不思議ですね。

それから自分の「好きなこと」って何だろう?
こんな言葉をものづくりするにあたってよく考えるようになりました。

今まで出来なかったことが出来るようになる喜び。
「不可能だ」と言われても可能にしたことが何度かあるからでしょう。
出来なければ何度でも違う方法でアプローチや工夫をすれば良いだけです。
口ではなく手を動かせって言いますね。
よく自分にも言い聞かせています。
もちろん可能に思えたのにダメになったことだっていくつもあります。
でも実行せずに安全圏で停滞しているよりも、実行してダメでも他の方法を考えてチャレンジして前進した方が視野が広がって面白いです。

私の中での「好き」の基準は以下の通り。
・面白い
・ドキドキワクワクときめき
・心が動く
・刺激や衝撃
・考える
・気付く

他人の中にも、これを感じるときはあります。
でも作品の中にあるものと、私の中にあるものが響くときが一番ときめくし、幸せな気持ちになります。
私もそういう作品を作りたい。
誰かをこんな風に幸せにしたい。
歌も作品もそうだけど、届けたい相手を絞った方が響きやすいです。
その幸せにしたい誰かって誰かな?と考えたとき、自分のような人だな。と思いました。
過去の自分自身を救えたら、きっと同じような感覚を持った人も救える。

よく大き過ぎる主語を使った言葉「皆言ってるよ」「普通こうだよ」「男は皆こうだよ」「女は皆こうだよ」と言われることがあるけれど、アレ実際は一部の人だし、その言葉を言った人だけの考えを言っている場合もある。
そうやって他人をコントロールしようと意見を押し付けたり、他人に求めない様にしたい。
先日のブログにも書いたけれど、自分を尊重したいし、自分を尊重してくれる人を尊重したいと思う。
尊重したい相手は自分が選びたいし、お互い尊重出来ないと関係は成り立たないと思う。

相手の選択を優先する→都合よく便利なので嫌われないけど大切にされない。
自分の選択を大切にする→コミュニケーションができる。前者には嫌われ、尊重し合える人のみが残る。
例えそれでぼっちになったとしても、またそんな自分を尊重してくれる人は現れるんですよ。
それも相手は人間だけじゃなくて動物だって植物だって良いんです。
相手を大切にできればなんだって。

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私は小さい頃から「愛嬌があってコミュニケーションが上手」と両親や親戚や友人たち先生にも職場の人にも言われていました。
実際そんなことはないし、付き合いが長くて親しい人なんて本当に数える程度。
でも知らん人でも会ったら近所の人みたいに相手の話を聞いたり、尊重するようにしているとは思う。
相手の話を聞いた上で、目の前のことだけではなく人生トータル(とはいえ自分と会ってるほんの一部しか知らない)で考えて相手に良いことを実行するようにしている。
例えば、結婚して子供がいる友人に対しては、もちろん子供のことは可愛がるけれど、それは両親である友人やその親戚など周りの人がしていることなので手が足りているから、私は私の友人を労わるように心がけている。
友人だって自分のことを疎かにしてでも子供を優先しているから、せめて私だけでもそうしたい。
友人の好きそうなケーキやお菓子をお土産にしたり(子供がいると遠出も出来ないし、おしゃカフェも行けないのでせめてお家で味わえるように)、子供とのツーショットや家族での楽しそうで自然な雰囲気の写真を撮ったり(片親と子供の写真はよくあるけど、家族での写真は自撮り以外では他人しか撮れないし、全員の思い出になる)昔のたわいの無い会話を覚えていたり(数年前に○○で会ったときの話とか)、そんな小さなことで良いのです。
相手にその意図が伝わることはないけれど、子育てでテンパりながらも手一杯な人に気付いて欲しくてやっていることではないので、相手が少しでも喜んでくれたり、気分転換になったり、何かの糧になってくれたならそれで十分だと考えている。
日本人のほとんどの人がこの様な思いやりを持って人に接しているから、海外に行くとこの日本の教育方針だけは間違いないな!って思うし誇らしいです。
電車で席を譲ったり、落とし物を警察に届けたり、誰かを手伝ったりって、スルーする人や盗んだり騙したりする人も世界中にはたくさんいるもの。
コミュニケーションってそういう相手を尊重するような小さな思いやりの積み重ねだったりするんじゃないでしょうか。
とはいえ、相手の言動をよく見て聞いて、話の内容も覚えていないと出来ないことなのかもしれません。
自分の覚えてないような小さなことでも、相手が覚えていてくれたりすると嬉しいものですからね。

上記のことは、私が両親や親戚や近所の人たちや友人、周りの人たちにそうしてくれる人がいたから得られたことなのかもしれません。
でも、逆に「○○してもらえなかったから自分から行動する」こともあります。
最初に先述した通り、小さい頃私自身はあまり選択をさせてもらえる環境にいなかったからこそ、小さい子供や周りの人には「何がしたいか」を問いかけます。
もちろん自分からも提案します。
「何でも良い」と言われることが一番困ることも知っているので、お互いの意見を出し合って丁度良いところに留めることが目標。
自分の意見が通らなくても「今回はあなたの行きたいところにして、次回はこっちでもいい?」と聞いてみるようにしています。

そうやって出来ているのが私なりのコネクションだったりするのかもしれませんね。
先日も街や色んな展示会やパーティーでよく顔を合わせる作家さんに、これまた展示会場でバッタリ出会ったのですが、考えてみると付かず離れずでもう10年来のお付き合いだったりします。
その方と会おうという約束も連絡も一切してないんですけどね、面白いご縁です。
会うとお互いの友人や知ってる作家やギャラリーの方を繋げるようにしています。
そういう方が数える程度でもいると思うと、コミュニケーションが少しは上手い方なのかもしれないなぁ。と自分を見直すあおりんごでありました。

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お題「気分転換」