あおりんごの凡ぶろぐ

美大を卒業した後、色々な経験を経て、現在は個人事業主&作家活動中

生きたい方向はどっち?


BTSのアンソロジーアルバムが出ましたね。
我が家にも届き、早速聴きました。
BTSからARMYへの色取り取りの花束のプレゼントのようでしたね。
そして例の会食の動画も観ました。
ARMYの皆さんはどのように感じられているのでしょうか。

まだ日本語訳は出ていませんが、韓国の方々が韓国語と日本語のニュアンスを踏まえ、考えながら翻訳して下さったものをいくつか拝見しました。
活動休止という記事が多く出ていますが、休止ではなく、休みを取りながらそれぞれが伸び伸びとソロ活動を進めていくと受け取りました。
それは多分ジンくんの兵役期間を考えてのことだと感じました。
戻ってきたらまた7人が集結するんだろうなーと私はただただ楽しみ。

しかし、ソロ活動ともなると、7人+BTSの何かしらの活動もあるとのことだったので結局私の眼が二つでは足りなくなるということですよね。
今まででも彼等の活動を追いかけるのも精一杯だったのに、それが・・・・8倍(白目)。
ARMYを休ませる気がないバンタンからの挑戦状。
お受けいたしましょう。(出来る範囲で)

ARMYによっては「日本語訳で知りたかった(会食の字幕は韓国語・英語・スペイン語で未だに日本語訳がないがそのうち日本語訳もつけるようです)」とか「7人での活動がないなんて」と他のアイドルに乗り換えたりする人もいるようですが、私には何の不満も不安もございません。
メンバーにこんなに正直に(動画もどこまで編集されたかわからないので本音を会社側にカットされいる可能性があるけど)説明してもらえて、Vには会食動画前に、JKには会食動画の1日後にケアしてもらえて、ファンとしては至れり尽くせりの最高のケア。

むしろ私としては皆が幸せに楽しく音楽表現活動をしてくれていれば私も幸せです。
会食の話で何よりショックだったのは「彼等それぞれにとって生きたい方向へ進めている幸せ」を感じて活動が出来ていなかった点だけです。
音楽芸術だけでなく、様々な芸術家を見ていて思うのはやはり「自分がしたい表現ができる幸せ」を感じているか否かにより、惹かれ具合も違ってくるように思います。
だから、これから彼等は自分のしたいことが楽しく出来るようになった暁には、今までより更に進化した作品を披露してくれることでしょう。
それを信じて、応援しています。

さて、BTSのメンバーにならってARMYたちが寄付などの慈善活動をしていることを私はよく目にしていました。
そこで私にも何か出来ることはないか、ふんわりと考えていたところ、母校のパンフレットが届きました。
寄付団体も沢山あり、寄付という名目で詐欺をはたらく方達もいなくはないので信用の置ける所を選びたいですね。
私の母校は何十年もその活動の取り組みを行なっていたので信用が置けるので安心。
そこには寄付も出来ると書いてあったのですが、寄付するにしてもその施設が一体何に一番困っているのか、聞く必要があると思いました。
調べていくと学習ボランティアというものがありました。
初めて聞きます。
内容としては様々な事情で身寄りのない子供たちに、期末テストなどの前にお勉強を教えるというものでした。
とにかくその世界に触れてみないことには何も実感できないと思った私はすぐに連絡を取りました。
すると偶然にもその翌々日に行われるというので参加させてもらえたのです。

私は特に勉強が得意なわけでも、教えるのが上手いわけでもないのに、良いのかな?と運営メンバーの方に質問すると「そばで応援してあげるだけでもモチベーションが上がるので良いのです。わからないところは他の参加ボランティアさんたちと協力して教えるので声をかけてください。」と教えていただきました。

私が教えることになったのは10代の子。
私の時代にはなかったことが教科書に書いてあり、この問題集を解くのだと言われました。
“教科書“という単語自体も、ノートにあった落書きも懐かしかったけど、どうやって教えるんだろう!?と考える間も無くどんどこ1人で解いていきます。
わからないところは参考書?テキスト?に書いてあるので大丈夫かなーとたかを括っていました。
私の苦手な計算が出てきたのです。
早くも他のボランティアさんにヘルプをお願いします。
「無理だよー!ドリル(学校の提出物)やりたくないよー!」と言いつつも、ボランティアさんの解説に理解が追いつきどんどこ解いていき、最終的には目標だったところまで終えられたのです。
すごい!これも子供の成長なのだろうな、と隣で応援しているだけの私は考えていました。

ご縁があればまた会えるんじゃないかとは思いますが、どうなんでしょうね。
運営メンバーさんと担当した子の印象によるので私にはどうしようもないですが、続けられたら嬉しいです。

子供は、誰かの背中を見て自己の世界を広げていきます。
私もドリルを解くのを応援している中で、お絵描きが好きだという子に「絵画でも突き詰めて作品にすれば売ることが出来る」と伝えると目を輝かせているのを目の当たりにして「ああ、私も見本として見せられるような生き方をしたいな」と思いました。
作品もまだまだ作り途中のものや、展示ができていない絵画もあります。
胸を張って生きられるようにしたいです。

事情のある子供たちは自己肯定感が低い子が多いのだそうです。
私にもそれについては心当たりがあるので身近な問題でした。
なので、どのように対応すれば自己肯定感が少しでも上がるのかはわかっていました。
それにより少しずつ距離感が縮まったのはとても嬉しかったです。

私の友人にもやはり自己肯定感の低い人たちはいて。
でもそれぞれの友人たちのやりたいこと、生きたい方向を聞いて聞いて聞きまくって「こういうのはどう思う?」と選択肢を増やすようにお話をするようにしていました。
私が昔、誰かにして欲しかったことを好きな人たちにしているだけだったりします。
押し付けではなくて、それぞれがどの方向へ行きたいと思っていて、何を理由にそこで立ち往生しているのかを考え、それを一緒に解決しては一歩だけ進む、ということをしています。
進むのが解決にならなければ一歩下がっても問題ないですし、本当に行きたいところへ辿り着くことが目標なので回り道しようが時間がかかろうがなんでも良いのです。
ということをしていたからか、子供たちに対してもすんなりと接することが出来ました。

人は勝手に成長し、勝手に生きていくもの。
それはそれぞれが生まれる前に計画してきたものですから邪魔できません。
とはいえ、私と会うことも計画に含まれているのだとしたら、私には何が出来るのでしょうね。

私は最近になってやっと、自分の人生を生きている感じがしています。
今までの私を振り返ると、ただの「モノ」だったように思います。
物体です。
誰かに好かれるということも「物としての自分の価値観」が前提にありました。

経歴、知識、腕、性別、容姿、作品=私という価値観

そう思い込んでいました。
それは親戚や両親から小さい頃より叩き込まれてきた昔ながらの価値観。
古き良きとは言いますが、一歩間違えれば古き悪き習慣になります。
これを私は私の代で終わらせたい。

まだまだ完全に抜け出すことは出来ていないけれど、沢山の年下の友人たちに恵まれたお陰で私の年代以上の人たちの矛盾点に疑問を持つことができるようになったと思います。
ひとつは、会社で働いていた時でした。

“有名な会社でお金を稼げるようにならなければならない“
“社会の常識、社会への貢献“

会社の偉い人に出会った時「犬のように従順な部下」を育てようとしていることを感じました。
上司たちは海外に留学したりしていた人たちで「偉い人たちの考えは古い」と言っていたけれど、その人たちも「〜しなければならない」という古い考えや風習にとらわれている人が多かったです。
それぞれの時代の価値観にとらわれている空間で「〜しなければならない」に縛られている自分も「何故ここにいるのだろう」と考えていました。
あるとき「誰かがこうしなきゃじゃなくて、あなたはどうしたいの?」と聞いてくれた上司がいました。
そのお陰もあり、ハッと我に返ったように思います。
私は私のために生きていなかったのです。
その人のお陰で私は会社を辞めることが出来ました。

もうひとつは婚活をしていたとき。
親戚や両親に叩き込まれた

“早めに結婚しないといけない“
“早めに子供を作り育てること“

という価値観にとらわれ、親との約束を優先し、好きな人と別れ、婚活をした。
相談所に入れば、指定の服装に髪型と会話。
選び選ばれるお見合いにデート。

食べ物も何の味もせず、せっかく良いもの食べても美味しくない。
ひとりで食べる安いパフェの方が断然美味しい。
あれは完全に「相談所と両親に作り上げられた商品」としての私でした。
自分に悪いことをしたと思います。
私には合わなかった。

それで愛が生まれる人はそういう人生経験を選んできたのだから問題ないのです。
私にとっては、誰かに会う度に自分がナイフで削り取られていく鉛筆のような気分でした。
最後にはチビっとした鉛筆になって使えなくなります。
それをやめたことで、私は頭から爪先まで値踏みされることも、セクハラを受けることもなくなり、心の平安が訪れました。
今は芯を取り替えれば永遠に使えるシャーペンの気分です。
親から産まれはしましたが、親戚や親のために生きているわけではないのでもう言う事聞くのやめました。
中国語でも「聴話」という言葉がありますが「先生や親の言うことをよく聞く良い子」つまり「自分がなく言いなりになる都合の良い人」と言う意味でした。
私はその言葉にいい印象がありません。

結婚をしない人が異常のような発言を未だに耳にします。
人のことより自分の人生を密度高く生きているのかどうかじゃないでしょうか。
BTSだってARMYや会社や国のことを優先していたから、本当に自分達が本当に生きたい方向に行けていないことが窮屈で苦しかったのだと思う。
皆が笑顔で好きな方向に生きられますように。
今すぐにそれが実行が出来ないなら、その原因を探して、出来ることからひとつずつ解決していけますように。

 

なんて書いた後に、私の影響で最近また絵を描き始めたという台湾の友人とテレビ通話しました。

友人:田舎に帰るのも良いと思っているけど、それをしないのは諦められないことがあるからだと思う。でもそれが何なのかわからない。

友人:今はサービス業の仕事をしていて楽しいし、サービス業にずっと興味はあるけど責任は持ちたくない。それに絵を描く時間も欲しい。社長は不定期でお店を開けるから、閉めているときにお店をあなたに任せても良いと言っていたこともあったけど、私は料理が作れないから出来ない。

私:サービス業とクリエイティヴ、両方出来たらいいね。社長がお店を閉めている時に、そのお店を使ってギャラリーとして絵の展示会をしたらどう?場所もあって、料理もいらない。でも絵は売ることが出来る。お店の仕事もやめなくて良いし、田舎に帰らなくても良い、絵を描くことも続けられて、売ることもできて、ギャラリー代などの場所代もいらない。

友人:!!うーん。それ良いですね。社長に聞いてみます。

 

こんなことばかりしている。

私には何の得にもならないんだけど、それが良い。

ボランティアも、友人との会話もそう。

損得勘定なくフラットに、誰かと愛を持って接すること。

それで誰かの人生が好転するなら嬉しい。

それが私が出来る人類愛なのかもしれない。

めちゃくちゃ範囲は狭いけどね。

数字の3と世界の隠語発音集


最近「本質」について触れる機会が増えてきたあおりんご。
ただその本質に辿り着くには沢山の知識と、俯瞰して見るよりも自分から一歩引いて眺めることなのかなーと考えたりして生きています。

【何が君の幸せ】

今のお仕事に関しても、特注品は依頼者を癒すためのもの。
私が作りたい作品は、私と鑑賞者、そしてもうひとつの存在のためのもの。
と考えて作っています。

先日友人Aとお話していたら。
友人は作品のモデルを探していました。
そして友人の兄弟のパートナーさんが精神的に病んでしまいお仕事を辞められた話も聞きました。

私もモデルを頼まれたけれど、どちらかというと友人の作品を購入ターゲットにしている年代や作品の雰囲気からして兄弟のパートナーさんの方がピッタリじゃないかと提案してみたところ、友人はハッとしていました。
まさに灯台下暗しです。

これ実は病んでいることを聞いてから二日間ほどかけて考えて提案したものでした。
精神的に病んでいる方にとって何がいいのか、ずっと考えていたのです。
会ったこともないのにね。
でも兄弟のパートナーさんもおしゃれができて、アルバイト代も入って、少しでも気持ちが上がるんじゃないかな。
友人はモデルが身近にいることが強みになるし、おしゃれが好きな子だから会話も盛り上がるだろうし、家族内での株も上がり、うまくいけば兄弟のパートナーさんからその年代の友人たちに広まって売りやすくなるかもしれない。
※作品を沢山売りたいと言っていた。
お互い良いこと尽くめじゃないですか。

私にとって何の得もないけど、ただ皆が幸せになる方法ないかなと考えました。
実行するかしないか、どう捉えるのかは、本人たち次第。
ただ、こういう道もあるんじゃない?と提案しただけなので無責任なものです。

実際聞いてみたそうで、モデルを喜んで引き受けてもらえたようです。
めでたし。

この考えに至ったのは昔、とある画廊の方が教えてくれた三方よしという言葉に基づいているように思います。
三人のそれぞれ違う分野の商人がいて、全員で知恵を出し合いお互いにとって良い方法で商売をしてうまくいく話だったかな。

以前のブログでも書いたお話にもちょっと重なる部分がありますね。

aor1ngo.hateblo.jp
今気づいたけど、こちらは三尺三寸箸という話だし、何だかという数字がやたら出てきますね。
不思議。

「3」の意味について調べたら「協力者がそばにいるのでその人を頼りに進むように」ということでした。
意味も重なりますね。

【伝えたいこと】

過去にあんまりこだわらない私が、今もちょっと後悔していることがひとつあります。
近年父方の祖母が前触れもなく突然亡くなったのですが、その一年前に父と仲違いをし距離を置いていたために、コロナ禍でただでさえ祖母に会いに行く機会がなかったのに、一度も会えないまま事故が起き、一生会えなくなってしまったことです。

そしてときは経ち、今度は母方の祖父の体調が芳しくない状況で、こちらも遠方のため会いに行ける機会が減っているところ。
先月会いに行くはずが緊急手術のため会えず。
「退院したから来週一週間会いに行くけど、一緒に行く?」と家族に聞かれました。
最初は他の予定もあったので「行けない」と答えましたが父方の祖母のことを思い出し、他の予定を調整して行けるようにしました。
あとは祖父の体調次第ですけれど、私はこれで良いのだと思います。

実は私がこの仕事を一生の仕事に選んだのは、紛れもなく祖父の影響なのです。
祖父は90歳を超えた今も尚現役で働いています。
私も死ぬまで現役で色々自分で工夫して生きてゆきたいと考えて美大に入り直したのです。
何度か本人に伝えたような気もしますが、流されたようにも思いますし「これからも私は祖父のように生きるよ!」とお礼も兼ねて宣言したい気持ちもあります。
地球上の生き物は重力と老化には逆らえません。
少しでもお互いが生きているうちに会えることを願います。

【世界の隠語】

さて、ここからはガッツリ下ネタになりますのでご注意ください。
しんみりしたままでは終われません。
私は今年一の大発見だ!と思う言葉に出会いました。

花も恥じらう乙女という言葉があります。
これは花が恥じらうのか、乙女が恥じらうのか、はたまた何を恥じらうのか。
調べていくとこの言葉の対義語としては水も滴るいい男だというのです。
調べても調べてもこの件についてこれ以上詳しく書いている文献も資料も論文もないのですが、日本の庶民的文化でもある春画やら秘宝館やら行ったことのある私からすると、全てが下ネタにしか思えないのです。

この表現も、以下の友人との会話も
以前のブログにも書きました、前衛芸術花道家中川幸夫さんの作品にも通ずるものがあります。

aor1ngo.hateblo.jp


数週間前に友人とのこんな会話を交わしたところでした。
友人:パートナーから珍しく自分の誕生日に花束をもらったので飾ったところ、百合の花の香りもものすごいのだけど、雄蕊の花粉も取らなきゃ行けないし、雌蕊がまたベタベタするんだよね。
私:花って性器そのものだもんね。
この言葉、普通の人なら引く人もいると思うのですが、美大卒の友人たちには間違いなく通じる不思議。
とても共感していただけました。
多分いつも大真面目な顔してこんなことばっかり喋ってるから慣れもあるのかもしれない。

更にK-POPの話題になりますが、昔のBTSがラジオ番組で男性の大切な部分を「唐辛子」と表現していたことを思い出しました。
韓国はキムチが有名ですし、唐辛子は料理に頻繁に使われているので、ここに各国の文化的表現を感じるのです。

日本では桃や鮑、茄やバナナなど。
でも、桃もバナナも外来のものですから、鮑と茄の方が古くから使われている言葉なのではないでしょうか。

隠語と言えるのかわからないけど友人から中国語では
あの人は私のタイプ → あの人は私のおかず(直訳)
という言い方もすると教わりました。

世界中に全く同じではないだろうけど大体同じような部位を持ち合わせた言語表現の使える人間が沢山居るのです。
ということは各国での下ネタ表現、いわゆる隠語というものがあるなら、調べてみるとめちゃくちゃ面白いと思いませんか。

それからTWICEの「TT」という楽曲のタイトルからしてフィリピンでは放送禁止用語ということで公共放送で流せないというニュースを見かけました。
TTは発音が男性の大事な部分と同じなんだそうです。
こんなの小さい子が見た暁には幼稚園や学校で絶対流行ること間違いなしですからね。
日本でもクレヨンしんちゃん大ブームにより世の親御さんたちは大慌てでしたよね。
近年はちょっとお上品な表現になってきた気がします。

世界中の隠語発音集なんてありませんから(私が知らないだけであったりして)実は私たちも日本語だと思って、堂々とどこかの海外の国の隠語を発言しているような場面もあるのかもしれません。
その現場に偶然居合わせて隠語の意味を知っている人がいたならば、やっぱりクスリとなってしまうのが人間でしょう。

そんなくだらないことを話せる友人がいる時点で私は幸せなんだろうな。
さて、仕事の続きでもしてきます。

今週のお題「人生で一番高い買い物」

食いしん坊たちを繋ぐ不思議なご縁

長い付き合いの友人とは、最初から気が合うと思っていましたか?

個人事業主となり、作家となり、ひとり黙々とものづくりをするようになってからというもの、付き合う人間が変化し、コロナ禍ということもあり人数も限られています。
私は元々人付き合いが上手い方ではない。
それでも仲良く付き合い続けてくれる人がいる。
ありがたいことです。

現在よく会っている友人たちですが、出会った当初、実は合わないところや苦手なところもあった人たちだったもので「そのうち会わなくなるだろう」と思い距離を保って付き合いを続けていました。
しかしある程度の付き合いの長さを超えると、お互いに成長や変化がある中で、だんだんと付き合いやすくなってきたことに気付きます。

BTSメンバーも、最初は合わなかったそうですが、合わせられない人には合わせられる人が
歩調を合わせ、意見が食い違ってもお互いが物理的に離れられないように手を繋ぐなど、ルールを設けて少しずつ付き合い方を調整していったというエピソードを思い出しました。

私はそういうことを意識して付き合うことは全くないですが、付き合う中で「失礼だな、とは思うけど、この人はこういう人なんだろうな」と遠くから見ているような気持ちで付き合っていた頃があったことを思い出します。
相手との年齢差が10歳違ったからこそそう思えたのかもしれません。
それから約10年も時が過ぎると、経験や環境などの変化もあり「あの頃の私は随分失礼なことをしていたよね」と相手から言うものですから驚きました。

親戚でも同じようなことがありました。
でも何十年も経ってから「あの時は私もしつこかったよね」と言われるのです。

私も嫌なことがあってもあんまり口に出して言うことがない性格でしたから、不思議だったのです。
皆、過去を振り返って冷静に自分を見返しているのだなと感心します。
私はそう言うことが出来ているだろうか。
・・・・・・多少はあるのかも。
皆さんはどうですか?

私は過去の記憶があるのは一部しかないのです。
記憶がないところに関しては、何にも興味がなかった時だと思います。
自分にも他人にも興味がなくてふわふわと浮いていたのでしょう。
そのときの記憶を最近少しずつ思い出す努力をしています。

何があって、どうしてそう思っていたのか。
それは私しかわからないことだから。

友人たちと話していると「あの時あおりんごがこう言ったおかげでこうなったんだよ」という言葉をもらう時があります。
当人は「そんなこと言ったっけ?」と言うものですが、当時のことを教えてもらうと間違いなく私が言っていたようだと言うことがわかります。
私の意識しない言動によって誰かが影響を受けているのは、良いのか悪いのかわかりませんが、本人が良いと思うなら良いのでしょう。
私は友人が喜んでいるなら、嬉しいです。

そういえば昨日も台湾の友人と韓国料理を食べに出かけたのですが、以前食事に出かけた時に友人が言っていた言葉を覚えていて、それが改善するものを作ってプレゼントしたのです。
毎度台湾のお土産などをくれるものですから、そのお礼も兼ねて。
すると「嬉しい!涙がでそう!大切に使うね」と喜んでもらえました。

そういえばこの台湾の友人ともこんなに長い付き合いになるとは思っていなかったです。
繋がりも遠い遠いものだったのです。
でもなんだかんだ波長が合っていて、一緒にいて落ち着くし楽しい。
たまに中国語を教えてもらったりします。

その友人とはご飯を食べに出かけることが多いのですが。
目で見て「美味しそう」
香りを嗅いで「絶対美味しいね」
食べて「美味しい!!」
味わって「んー!幸せー!」
って必ず言うんですよね。
見てるだけでこっちが幸せになります。

そういえば、付き合いの長い友人たちは全員漏れなく食いしん坊。
類は友を呼ぶのでしょう。

今後はどういった展開になるのかは誰にもわかりませんが、今この友人たちと偶然同じ列車に乗り合わせ、美味しいものを食べて会話をして、色んな体験ができることを楽しみたいと思います。

自分がパンセクシュアルなのではないかと考えてから、何か重たかったものが外れたような感じで、ジェンダーも年齢も問わず、誰といる時間も大切に楽しく過ごそうと思うようになりました。
「恋愛」という考えや「我」「エゴ」が出てきそうになったら、一度それをクリアにして「私は目の前の人がただ好きで一緒にいるのだ」と思うようにしています。
自分が好きだと思う人を尊重すること。
それが一番大切なことです。

ひとりひとりを見つめて、聞いて、考える。
どうしたら喜ぶかな?お互いに嬉しいかな?って。
たまにしか会わないんだから、楽しい時間を過ごしたい。
些細なことも覚えていて、次回会った時に実行して喜んでくれたら、お互いいい気持ちで楽しい時間を過ごせる。
短い時間だからこそ出来ることってあると思う。

会わなくても、連絡取らなくても、ふと思い出しては好きな時に連絡し合うような楽な関係の人もいます。
SNSも普及しているのでそういう関係でも何の心配にもならない。
長過ぎる関係に落ち着くと誕生日とかふとした時に連絡する程度になることもあります。
それで疎遠になるってこともあんまりない。

人間関係とは不思議なものですね。

今週のお題「何して遊んだ?」

パンドラの虫と胎内記憶

今日は玄関を開けたら、ドアの真下にテントウムシがいました。
ドアを開け閉めしても動かなかったので様子を見ていたら、少ししてから動きました。

虫は苦手なのだけど、テントウムシはのんびりヨチヨチ歩くのが可愛くて好きです。
テントウムシといえば、ナナホシテントウを見つけると良いことがあると聞いたことがあります。
「天道虫」という名前からしても縁起が良い。
調べてみると、玄関にテントウムシが現れるのは人間関係による良いことの予兆だとか。
ちょうど明日は人に会うので楽しみになりました。

人は、そういった根拠のない「希望」をいつも感じて生きています。
この世に産まれる前からずっとそうやって生きてる。

【胎内記憶】

先日、親戚のお子(3歳)と遊んでいたときのこと。
ふと質問してみました。

私:そういえばお母さんの体の中にいたときのことって覚えてる?
子:うん
私:どうだった?
子:あつかった!(温度のこと)
私:覚えてるんだ。すごいねぇ。何か見えたり聞こえたりした?
子:黒いポタポタ聞こえてたんだ
私:黒いポタポタってなに?
子:お母さんがお風呂でシャワーする音だよ

驚きました。
噂は聞いていたけど、本当に胎内記憶ってあるんですね。
確かにお腹の中は薄暗いし、外は明るいから皮膚を通したら水滴は黒く写るのかも。
音もポタポタ聞こえていたんですね。

でももう胎内記憶聞くのやめようと思いました。
なんだかお母さんのプライベート聞いてるような気がして。

胎内記憶よりもっと前の記憶を持っている人もいるのだとか。
胎内から胎外の人たちの感情が言葉はわからなくても読み取れるのだとか。
胎内から産まれるときに産声をあげるのは、熱かった胎内から出て空気に触れて急に寒くなったからだとか(刺激ってことか)。
小さな命はお腹の中からすでに人生が始まっていて意識があることを知りました。
生命の神秘過ぎてまだ頭がついていかないです。

パンドラの箱に残ったもの】

偶然にもギリシャ神話についてちょこっと学びました。
人類最初の女性パンドラのお話。
このパンドラという名前のパンも「全てのもの」を意味し、パンドラは「全ての贈り物」という意味になります。
前回のブログに書いたパンセクシュアルともまた繋がってきますね。

さてこのパンドラが神様に「絶対開けてはいけない」と渡された箱。
結局開けちゃうんですけどね。
浦島太郎でもこういう箱出てくるし、何で開けちゃいけない箱を持たせるんですかね。
ふつうのプレゼントあげなよ。って毎回思っちゃう。
パンドラの箱を開けたら中から様々な災いが飛び出します。
慌てて蓋を閉めると、底には「エルピス」が残りました。
だから人間は絶望しないで生きることが出来るとされています。

このエルピスとは「予兆・期待・希望」を意味しています。
英語圏ではHOPE。

【J-HOPEの由来】

BTSメンバーのひとり、チョン・ホソクが「J-HOPE」という名前にした理由を語っている動画でも「本名は使いたくなくて、パンPDとRMと相談して考えて最初はジェイホだったけど、ギリシャ神話のパンドラの箱の底に残ったものがHOPEだったからそこから取ってジェイホープにしたんだ」と言っていました。
その名の通り、今や彼はBTSや全世界のARMYの希望となっています。

BTSのアンソロジー・アルバム「Proof」予約済!
 まだあと一ヶ月あるのに毎日ずっと楽しみで希望しかないあおりんご。
 その名の通り、BTSの存在を証明するものになりそうですね。

エルピスという言葉は古典ギリシャ語なので、外国語である日本語に訳すと「予兆・期待・希望」となりますが、ニュアンスがちょっと違うのかもしれません。
パブリオスの物語では「実際の幸福は逃げ去ったが、いつか幸福が手に入るという希望が残っている」と解釈することができると言います。

【暗示と言霊】

要するに冒頭の私がテントウムシを見つけて「良いことがありそう♪」と思って生きてる感じでしょうか。
ジブリの「耳をすませば」でも主人公が空に飛行船をみつけて「良いことありそう♪」と言っていたのを思い出します。

実際、これには自己暗示的な効果があると私は実感しています。
無意識につい小さな希望を探しちゃうからね。
更に効果的だと思ったのは「良いことあるよ」と誰かに言ってもらうことです。
これは本当に良いことが起こる、というか良いことを見つけることが多かった。
暗示的なこともあるとは思いますが、言霊の方が強いのかなとも思います。

だまされたと思って家族や友人や好きな人に言ってもらってみてください。
誰かに言ってあげるのも良いですね。
このブログを読んでいるあなたにも良いことがありますように、見つけたテントウムシの写真を貼っておきます。

今週のお題「サボりたいこと」

パンセクシュアルの婚活と一角獣

子供の頃から性別で区分されることが苦手だったあおりんご。
前回のブログにも書いたとおり、低身長&童顔のせいかと思ってました。

ある記事で「パンセクシュアル」というジャンルがあるということを知ります。
これはLGBTQ+の中のひとつだそうです。
世の中にはまだまだ知らないことがありますね。
まさか自分にも当てはまるものがあるとは思いませんでした。

【パンセクシュアル(オムニセクシュアル)】

誰かを好きになるとき、相手の性別を気にしない人のことです。
男女など関係なく、相手がどんなセクシュアリティだったとしても意識せず「人として好き」という感情が多くを占めています。
「パン(Pan)」はギリシャ語で「すべて」という意味であるように。すべての人を好きになる可能性があることから全性愛と呼ばれます。
しかしこれは、全人類を恋愛対象として見ている訳ではありません。
あくまでもその可能性があるというだけであり、相手の人間性を重視するということが多いという意味では、パンセクシュアルの恋愛対象はとても狭いと言えるでしょう。

※1:恋愛対象が狭いというのは、それぞれが「好きになる人間性というものが異なる」ためこう書かれているのでしょう。単に好みの問題。

※2:別のところで「両性愛者」と書いてありましたが、それは「男女」を意識した言葉と認識できるので外見と中身の性が違った人も当てはまることから「全性愛者」の方が近いかと思います。

※3:バイセクシュアルとの違いは、相手のセクシュアリティを意識するかしないかってことらしいです。

※4:そういえば「ちびまる子ちゃん」の作者のさくらももこさんのエッセイを読み進めているのですが、この方もまたパンセクシュアルだったのかもしれませんね。

そんなことを学んで、納得するあおりんご。
だからといって、今は特に誰かを好きになることもない。
出会いもない。
何故なら性別関係なく出会える場所がないから。

【婚活をしたこと】

実は数年前に出会い系・婚活系アプリや結婚相談所にも行ってお見合いをしていました。
もう二十歳になる前から家族や親戚に「結婚を早くしろ」と言われており「30代半ばになっていい人がいなければお見合いをする」とも約束をさせられていました。
付き合っていた人は何人かいたものの、どちらかがダメで結婚まで至らず、のらりくらりと約束の話をかわしている内に、結局約束の年齢を越え、お見合いをする運びになります。

結婚相談所のカウンセラーさんからは面接後
●お相手が時間を作って会いに来てくださっているのですから、楽しませてあげるように。
●外見や服装や会話の内容やデートについての厳しいルール(個人の趣味はガン無視)
というものが課せられます。

カウンセラーさんは良かれと色々アドバイスをくださったのですが
外見も仕草も会話の内容もお相手好みに寄り添い、その場を盛り上げる。
なんて私には「無料での接待を強要されているようだ」としか思えませんでした。
お見合いするごとにお金を支払い、お相手からは出会い頭に頭からつま先まで値踏みされ、初対面でセクハラ発言あり、むしろ仕事での接待の方がお金もらえるからまだ踏ん切りがつくんじゃないかと考えていました。
私が何よりきつかったのは性別を意識されることでした。
これにより毎度自分がカウンセラーさん、お相手、世間、親や親戚から、えぐり取られているように感じ、日に日に精神がおかしくなっていくことを感じていました。
一年半ほど続けて、泣くほどつらくて、親戚にも友人にもこぼしていたほどです。
そしてとうとう限界に達した私は家族に婚活を辞めることを宣言し、結婚相談所も退会しました。
その時の肩の荷が下りた開放感といったら!

辛さの原因がパンセクシュアル故のものだったとは思いもよりませんでしたけれども。
パートナーが欲しくても、お互いの性別で見ている時点で話にもならなかったわけですね。

【性別を超えて好きになること】

思い返せば心当たりはいくつかあります。
自分とは違う性別の人間を好きになったことはもちろんあるし、お付き合いもしてきました。

同じ性別の人のことも「可愛くて大好きだな」としみじみ思っていたことは何度かあります。
ただ、私にはそれが恋心だと認識ができず思春期のせいかな?くらいに思ってました。
現在では相手は結婚もしていて子供もいるけれど、今も変わらず大好きです。

海外に語学留学していたときにLGBTQ+に寛容な街にて知り合いのツテで出会った方が「学校に行く前に寄ってくれたら練習相手になるよ」と言ってくださいました。
会う度に「かっこいいな」とは思うし、一生懸命教えてはくれたものの、私が好きになりそうだったし、相手にもパートナーがいたら申し訳ないと思い会うのをやめました。
それもまた私の勘違いかな?くらいに思っていたのです。

付き合ってきた異性も確かに人間性重視だった気がします。
でもそれは皆そうじゃないの・・・?

【婚活に求めるものは何か】

婚活を進める中で、婚活仲間に性別関係なく何人か出会いました。
会話をしている内に「求めているもの」にそれぞれ違いがあることがわかりました。
・子供の有無
・老後の心配
・世間体
・孤独による寂しさ
が引き金となって婚活を始めた人が多かったです。
聞けば聞くほどお相手へのこだわりは細かくなります。
自分にもそういうものがあるのかを細かく書き出したときもありました。
しかし例えそれが全て当てはまる人がいても「本当の自分の幸せ」に結びつかないとも考えていました。

私はBTSという韓国のアイドルグループが好きなのですが「人間として好き」という気持ちが先行しているため「相手に求めているもの」が特にないのです。
私の人に対する「好き」は、それに近いのではないかと気付きました。
本当にBTSという存在は万能だな。
改めて好き。

【本当の幸せ】

周りから言われる「あなたのためにも結婚した方が幸せじゃないか」という言葉。
本当に私のためなのでしょうか。
この場合、私ではなく「親や親戚が世間的に恥をかかない」ためのものでした。

私の本当の幸せは
・夢中になるものがあること。

・楽しくものづくりをすること。
・作品や自分やお客様と向き合うこと。
・性別を気にせず、自分も他人も人間的に好きなところがある人と過ごすこと。
私はそれらを大切に生きます。

親や親戚の時代には「結婚しない、出来ない人間は異常」とされていたのもわかります。
しかし今は令和で価値観もその頃とは大分変わりました。
結婚するもしないも、籍を入れるも入れないも、姓をどちらにするもしないも、何でも選べる時代。
まだ認められていないところもあるけれど、地域によっては同性婚も可能です。
そしてひとりで生きるという選択肢もあります。
生き方は選べます。
私は「しなきゃいけない」を捨てました。

お見合いは辛かったけれど、このことがわかったおかげで少し自分の見方が変えられてよかったです。
色んな職種や性格の方とお見合いしてひとりひとりの人生観や価値観を知られたのは学びになりました。
皆様が本当の幸せを掴めることを願います。

【”本当の幸せ”を踏まえた人生の一歩】

出せば信頼も期待も売上も上がることがわかっていても、自分の実力が知りたくて学歴も職歴も性別も個人情報を一切書かずに始めた自分のショップ
一年過ぎて振り返ってみると初めてのことをたくさん経験できました。
・デパートでの販売参加
・特注品のデザイン、制作
青色申告書類
・コンペへの作品提出
中でも嬉しかったのは、私の個人情報を一切知らぬまま、お客様やファンの方、ものづくり仲間が私をただの作家として好きになってくれて信じてくださることでした。
お客様は家族ぐるみで作品を喜んでくださっていることを伝えてくれました。
一年前は性別を超えて自分が誰かの推しになるなんて思いもしませんでした。
このことは、とても嬉しく制作の励みになっています。
これからもこの喜びを忘れずに生きたい。

【一角獣の夢】

数ヶ月前でしょうか。
海面からイッカクとカジキマグロが顔を出し、お互い見合わせて私に一言。
「前は一角獣だったのにねー」
と話しているという短くシュールな夢を見ました。
※夢の中のニュアンスでは「前=前世」でした。

確かにイッカクとカジキマグロは角みたいなものがあるけど急に何??

一角獣は西洋ではユニコーン、東洋では麒麟に当てはまります。
どちらも色んな獣の種類がミックスされている上に性別がありません。
うーん、前世が人間ではなかったか。
ちょっと納得する自分がいる。

【映画:ファンタスティックビースト】

「ファンタスティックビースト:ダンブルドアの秘密」を観てきました。


ここからちょっとネタバレ。

 

 

 

 

 

 

 


この話には麒麟が出てくるのですが発音が「チリン」に近くて不思議でした。
麒麟は中国発祥の伝説の生物だったと思うのですが、舞台はブータン
中国にしなかったのは色々と政治的なものもあったのかな、なんて考えたり。
しかもこの麒麟、アジア人の想像する麒麟とはちょっと違います。
私たちは麒麟と想像すると「麒麟ビール」のマークのような馬寄りの生物になるかと思います。
映画ではどう見ても鹿っぽいのです。
国が違うと感覚も少しズレるものなのでしょうかね。
台湾人の友人と観たのですが、同じ意見でした。


今週のお題「好きな街」