あおりんごの凡ぶろぐ

美大を卒業した後、色々な経験を経て、現在は個人事業主&作家活動中

完璧でないことの完璧なうつくしさを考える

本日は春分の日
春分前日から原因不明のだるさがあり、思うように動けませんでした。
調べてみると二十四節気の中でも春分夏至秋分冬至と「四離四絶日」と言われ、自然界の気が乱れやすく不安定な日だったようです。
季節の変わり目の体調の変化には、根底にそういうことがあったんですね。
初めて知ったけど、納得です。
季節の変わり目前後は大人しく過ごした方が良さそうですね。

さて、季節が細分化されているように、芸術も分野が分かれています。
特に面白いのは音楽と美術(芸術と書きたいところですがややこしいのでここでは美術とします)です。

【芸術】

・音楽:大きな感情の流れを表現
 私たちの感情や思い出などから思い起こされる風景を見せてくれます。
・美術:物や雰囲気、魂の憑依ができる
 私たちの見たこともないことを想像させてくれます。

これを更に時間からの観点で見てみましょう。
・音楽:録音は出来るけど、止めると音楽も聴こえなくなってしまいます。
・美術:絵画であれ、立体であれ、元々時間を留めたところを表現しています。
・映像:音楽は止まっても瞬間の絵は留まります。

私は個人的に何の音もない絵画にとても惹かれます。
そこに音はなく、時も止まっているのに、気配があるところが好きです。
もしかしたら、遠い昔、私はそんなところに居たのかもしれない。

グリム童話の青い鳥のお話で「思い出の国」というものが出て来ます。
私はそのお話をいつまで経っても忘れられません。
そこには死者が住んでいて、生きているものが死者を思い出すとその死者の時が動き出すという話だったと思います。
私はそのお話を思い出しては、亡くなった祖先の上着を着て、仏壇に手を合わせ、祈ります。

私は今生きているけれど、昔はきっとその国にいたのでしょう。
そしてまたそこへ還るのだと考えています。

【エンディングカット】

先日「エンディングカット」というドラマを観ました。
それは亡くなった方の髪から全身を整える人のドラマ、つまり死化粧やエンゼルケアというものが主題となっています。
主人公は高校生で美大を目指す女の子、ご両親とも美容師で彼女を応援していましたが、お父さんはエンディングカットをしていたことを知り女の子はショックを受け父を軽蔑、拒絶するが、あることをきっかけに腹を決め、その根底にある現実を直視し、受け入れていくという物語。

私も家族が亡くなったときに体験したことだったので「確かに亡くなった者にも、その家族にも、それに関わる他人にもそれぞれのストーリーがあるのだ」とじっくり考えてしまいました。

【宗教観】

私は無信教でも何教というわけでもありませんが、家庭の中は神道、仏教(宗派もいくつかあり)ごちゃ混ぜ状態、学校はカトリックという中で育ち、色んな国の色んな宗教の方と知り合って来たので、神様はたくさんいるし、全部ありがたいし、新興宗教でも他人に押し付けたり迷惑をかけていなくて自身で信じている分にはそれはそれで良いと考えているし、その対象は偶像なら神様でも芸術でもアニメでも音楽でもアイドルでもなんでも良いんじゃないでしょうか。
そうなると私はBTS教なのかしら。

要するに、心の支えは何だって良い。というものです。
それで心身の健康状態が維持できるのなら本当に何だって良い。
そういう人たちは他人にわかってもらえなかったり、他人に負担をかけたくなかったり、様々な事情があるでしょうけれど、自分一人で抱えきれないから、どこかに支えを作るのでしょう。
偶像でなくても、カウンセリングでも精神科でも良いのです。
依存は良くないけど、心の支えを作ることにより楽になるなら良いことだなと思います。

海外の方が、とある寺院で言っていた言葉を思い出します。
「私は他の人に愚痴や嫌なことは言わず、全部神様にだけ伝えます」と言っていました。
その人は普段とても明るい人でした。
王様の耳はロバの耳じゃないけれど、自覚してガス抜きをして自分をコントロールし、誰も傷つけない生き方は、なんて本当に素晴らしいことだろう。と驚いたことを覚えています。

話が逸れてしまいました。

高畑勲監督の作品表現】

エンディングカットもそうですが、死についてはよく考えます。
人間は寿命が来れば100%地に還るけれど、問題はその前後にあると考えています。

高畑勲監督のアニメーション映画「火垂るの墓」と「竹取物語」を観ました。
超絶重たい内容なので一度に何度も繰り返し観ることが出来ないけれど、生きることについてたくさん考えさせられる映画です。

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以前のブログでも書きましたが前衛芸術花道家中川幸夫さんも「死に向かう瞬間の美」を表現していました。
火垂るの墓」も同じように感じたのです。

火垂るの墓

特に違和感を覚えたのは2人が親戚の家へ向かうのに電車に乗って、降りたところでした。
あれは「銀河鉄道の夜」に出てくる家庭教師と2人の子供のオマージュじゃないかと思いました。
窓枠が十字架に見えたこともあります。
実際、あれが2人の生死を分ける分岐点だったと考えるとそう思えて仕方ないのです。

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節子は先に死んでしまい、清太は生き残ります。
同じものを食べていたはずなのに何故?と考えました。
黒い雨が節子の目に入ったせいかもしれない。
清太が節子より多目に食事をとっていたのかもしれない。
でも節子の死により、清太は節子を生かすという責任から解放されると共に、戦争にも負けたことを知り、家族の死を目の当たりに絶望し、生きる目的を失い、自ら無気力になり死に向かいます。

本当の寿命まで生きなかった人は、その寿命までの間、自分の業を繰り返し見せられると言います。
まさにそれが描かれた映画が「火垂るの墓」なのだと感じました。

竹取物語

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こちらは打って変わって、かぐや姫の人生を濃く短く表現されています。
この映画では、高畑勲さんの作詞した歌詞が特に重要に感じました。

わらべ唄(三種)

https://youtu.be/boUuU5YT3ZM


竹取物語」についての高畑勲さんの構成力や表現力には驚かされるばかり。
このブログの最初の話に戻りますが、このわらべ唄(音楽)と映像(美術)による表現により、全てを兼ね備えた芸術思想表現をされているのです。
まさに高畑勲さんの集大成という作品だと実感いたしました。

ある有名な方がこの竹取物語の解説で「性的表現がある時にかぐや姫は成長する」と伝えていましたが、私は「“性“ではなく“生“に反応しての成長」なのだと感じました。
「性による固定観念や強制される人生」ではなく「本能による生物本来の生の営み」の重要さを表現されていたのではないでしょうか。
それが一番わかりやすいのが、かぐや姫の地球での両親。
ここではお爺さんを父、お婆さんを母とします。
父は「自分の理想とするかぐや姫の幸せ」を願い、母は「かぐや姫自身の幸せ」を願い守りました。
幸せの本質とは何なのかと考えさせるのに、この対比を出してくるあたり。
その他にも対となるものは出てきては、鑑賞者に問いかけてきます。
それにより見る人によって思い出すこと、考える内容が違ってくるのがまた面白いのです。

かぐや姫は月へ帰ります。
星の王子さまも自分の星へ帰りましたね。
これには地球の重力というよりも、身体や感情の重さなどを感じたので下記にまとめてみました。

【魂と身体】

心(魂)

・陽
・愛
・感覚
・本能
・羨望
・自然
・流す
・軽い
・自分軸
・信じる
・秘密の知
・心地よさ
・エネルギー
ハイヤーセルフ
・コントロールの手放し

身体(肉

・陰
・情
・感情
・理性
・不安(ホルモン)
・物質的
・執着(流せない)
・依存
・重たい
・他人軸
・不信
・興奮(アドレナリン)
・コントロールしようとする

この二つを紐づけるのが脳なのかなと考えていましたが、先日夢の中でこの「魂と身体についての内容は逆でもある」と聞きました。
確かに生き物は粒子の流れであり、細胞は常に入れ替わっています。
私は相反するものだと思っていたのですが、これはセットとして考えた方が良さそうです。


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かぐや姫が羽衣を纏って月へ帰ったことも、星の王子さまが重たい身体を地球に置いて自分の星へ帰った件も、こう考えると筋が通る気がします。
と考えてたら、同じこと書いてた。
でもこの時よりも今の方がもっと深く考えられていると思う。


ここ一週間以上考えていたことの一部をまとめたけど、まとまっていないような。

でも、こうして見ると、人間を含む生物も、芸術も、完璧でないことの完璧な美しさや愛しさが浮き彫りになってくると思いませんか。

お題「ゆっくり見たい映画」