あおりんごの凡ぶろぐ

美大を卒業した後、色々な経験を経て、現在は個人事業主&作家活動中

本と五感と感覚差

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昔から本屋さんが大好きなあおりんご。
どこの国の本屋さんでも何時間もいられる自信があります。

今日は近所の小さな本屋さんへ。
一階から回って、更に二階へ行き、気になる本を見ていきます。

ちょっと前まで気にもとめなかった本が面白く見えることってありませんか。
試してみて欲しいのは「本が並んでいるところを端から端までジッと眺めてみること」それだけ。
たまにアンテナに引っかかるように惹かれていくものがある。
それもいつもだったら読まなかった本で、試し読みしてみると欲しい情報だったりする。

すでに持ってる本であっても同じことが起きる。
昔読んだ本がふと目につく。
内容は知っているはずなのに、前と捉え方が変わっている自分に気付く。

そういう時、思い出す話がある。
宇宙のある星にひとりぼっちで住んでる人が暇だからと手に取った本を読んでみる。
その本にとても感動する。
その日は寝て、また目が覚めて、また同じ本を読んで、また同じように感動する。
それを毎日繰り返している人の話。
何故その人が同じ本で感動するのかというと、すぐに記憶を失ってしまうからだという。
私とは状況が違うけど「まさにそれに近い」と思うほど感覚が変わっている。
というか、昔の私はちゃんとこの本の内容理解してた?本当に文章読んでた?ってくらい感じ方も考え方も違う。
7年周期で人間の全細胞が入れ替わっているということがわかるときでもあるのかも。

それが数年前でもそうだってことは、小学校の頃に読んだ本だとそれがもっと起こりやすいのかな?と考え、教科書に載っていた宮沢賢治の「やまなし」をこの前読んでみたら、確かに小さい頃に想像した情景と現在想像する情景は違いました。

「文章から想像する情景」
これは誰ひとり同じものを想像できているという確証のないものです。
感覚ってものは共有出来そうで出来ないものなのです。
絵を描ける者同士、同じ文章を読んで絵を描き合ってみると面白そうですね。
もしも近いものが描けたなら、それはお互いの感覚が近いのか、文章力が高いのかってことになるのでしょうか。

【アレルギーの感覚】
「人間それぞれ全く違う感覚を持っている」と自覚したのは自分のアレルギーからでした。
私は小さな頃から、ある食べ物を食べるとアレルギー症状が出るのですが、家族に聞いたところ「私も同じようになるよ」と何人かに言われて育ったもので「地球上の皆が我慢して食べているんだな」と妙な納得をして、その後何十年もその症状を我慢して生きていました。
あるとき、アレルギーの出る食べ物をいつも以上に摂取。
症状が出たものの「いつものことだし、時間を置けば元に戻るはず」と高を括っていました。
翌朝、見た事も感じたこともないほど症状が悪化。
大慌てで大きな病院へ行くとアレルギーと診断され、医師からは「アレルギー症状を軽く見ていると、最悪内臓が腫れて息が出来なくなり救急車で運ばれることになるので二度と食べないでください。同じ様に違和感を感じた食べ物も二度と食べないように気をつけてください」と言われる。
(今は慣れたものの、味も知っていて大好物なのに、医師に止められて二度と食べられないなんて超絶悲しかったです)
そこで私は同じものを食べたとしても
・自分が感じていたアレルギー症状
・家族が感じていたアレルギー症状
・アレルギーのない人は全く何も感じない
という他人には別の感覚が存在することにやっと気付いたのでした。

昔アレルギーについて理解のない人が「好き嫌いは良くありません」と無理矢理食べさせていた時代がありましたが、一歩間違うと本当に危うい言葉だったのです。

昨年から料理や薬膳作ったりしているのですが、栄養や効能を学んでいるときに「あれ?」と思うことがありました。
普通の食べ物も薬も、人間の身体に入ると身体の中の細胞や細菌が
「曲者(異物)だっ!者共、出会え出会え!!」と反応をするのです。
それにより、健康になったりアレルギー症状が起こったり、ということが起こるんじゃないかと気付きました。
「毒にも薬にも成る」という言葉はまさにその通りで、表裏一体ということなんだなーと実感。

五感は自分のものしか感じることが出来ないという、ひとりずつに必ず与えられている特別なギフトです。
他人の五感は例え中身が入れ替わったところで全く同じように体験出来るのかということすら怪しいほど繊細なもの。
相手側に立って考える、思いやる、ということにおいて、やっぱり自分の感覚から想像するしかないのですが、全く同じようにはならないということも念頭に置いて接することが重要だな、とも思います。

お題「我が家の本棚」