あおりんごの凡ぶろぐ

美大を卒業した後、色々な経験を経て、現在は個人事業主&作家活動中

お盆にみた不思議な夢

お盆休みも終わりですね。
皆さんのお盆休み、夏休みはいかがでしたか。
あおりんごは大好きなフランスのチョコレートのお店へひとりでお茶しに行きましたが、他には特にどこへも行かずチマチマ仕事をしたり勉強したりしていました。
取引先もほぼ夏季休暇中ですからね。
社会の方々のお休みが終わった辺りに出かけるのが個人事業主の特権と言えましょう。

さて、そんな私は毎年ながらお盆やお彼岸などの時期には、何故かとても眠たくなります。
そして色んな夢を見ます。
今回はそんな夢の記録をすこしご紹介。

● 夢1

真紅、朱色に金の模様のド派手な着物を着た人がお庭から部屋の中の私に挨拶をするのです。
その時の私には親戚の女性に見えました(現実的に親戚の年齢は60歳過ぎだけど、夢の中での着物については二十歳の子が着るような振袖の印象)。
そしてこのギンギラギンな着物や好きな人についての自慢話をしてくるのです。
私は話をそこそこに「私ちょっと疲れてるから向こうの部屋にいきますね」と逃げました。
ド派手な着物の女性は拗ねてむくれていました。
別の部屋へ行くと、そこにはまた家族や母方の祖父もいて(生きてます)皆で賑やかにご飯を食べながら、さっき見かけたド派手な女性のことを話題に出すと祖父は笑い飛ばします。
「ちゃんと話を聞いてあげなくて悪かったな」と考えた私は花を買いに行きました。
紫色の大きな花と濃い緑色の葉の組み合わせだったと思います。
花を持って商店街を歩いているとブルーヘアーとスカジャンにギラギラの刺繍がされたこれまたド派手な容姿のイケメンな方と、さっきのド派手な着物の方が談笑しています。
それを見て「ド派手同士だと全く違和感ないな」と私は考えていました。
イケメンは誰だか知らないけど、女性の方に花を渡しに行きました。
少し機嫌が直った様子でした。

【その日の現実】

ド派手な方々はいなかったのですが、その日は弟が実家へ帰ってきており(この予定も前日の夜に急遽決定した)母は弟のリクエストに応え、暑い中、天ぷらをたくさん揚げました。
晩御飯の準備をしていると、従姉妹からテレビ電話の通知が私へ届きます。
従姉妹の子供が「あおりんごとテレビ電話がしたい」とリクエストしてくれたそうです。
その日は本当に全ての偶然が重なって、従姉妹と従姉妹の子供たちと、実家の家族が揃ってのリモート食事会という形になりました。
それも夢と全く同じ部屋でご飯を食べていたのです。
思い返しても不思議な光景です。

【考察】

ご先祖様たちが皆で賑やかに食事していて欲しかったのかな。
派手な着物についても、もしかしたら高野山でご先祖様たちにご祈祷をあげてもらったから、たくさん良いものがもらえて嬉しくて、わざわざ報告に来てしてくれたのだとしたら。
素直に褒めてあげられなくて申し訳なかったな。

● 夢2

私の部屋にとても可愛らしい小柄な馬が6〜8頭いました(唐突)。
ポニーではなく美しい毛並みの馬がそのまま子馬サイズになったような感じ(でも子馬ではないらしい)。
皆賢く従順でとても美しかったです。
部屋の中で毛色の濃い順番に並んでもらいます。
一番濃い焦茶色の馬に「奥の方にいてね」と指示をすると、そこへ移動し、お座りからの伏せ状態で待っていてくれるほど賢いのです。
そこから茶色、薄茶色から白斑の馬まできちんと並んでくれて、可愛すぎてめっちゃ撫でました。
最高の毛艶で手触りも良かったです。
するとそこへ2、3歳くらいの子供が1人、悪戯をしにやってきました。
馬にちょっかいを出そうとするので怒ろうとしましたが「子供に怒るのはいけない。どうやってわかってもらおう?」と考えているところで目が覚めました。

【考察】

馬の夢は良い夢だそうです。
この日はお盆最終日。
京都では大文字焼き

そういえばご先祖さまたちは精霊馬に乗って移動するそうですね。
きゅうりとか茄子とかで作るところもあるとか。
ってことは、もしかして6〜8人のご先祖様が帰って来てたってこと?
先日、従姉妹家族とうちの家族揃って実家でリモート食事会を食べた時も、ご先祖様たちみんな一緒にワイワイしていたのかもしれない。
で、あの馬に乗って帰ったのかな。

なんて想像しています。

向こうでもこっちでも幸せでいてほしいし、私たち生きている者もご先祖さまたちの話をしたり、賑やかにしていつまでも忘れずにいたいものですね。
彼らは私たちのDNAや何処かにいて、私自身を形成している。
ご先祖さまたちの命が繋がれていなければ、私は存在していない。
私は昔からこういう夢を見るので夢と現実が混ざることはないけれど「本当はどっちが現実なんだろうな?」と考えることはあります。
世界は不思議なことだらけ。

毎年夏に観たくなるアニメは「STEINS;GATE」です。

タラシ日本人と出汁


以前のブログに些細でも他人に思いやりを持って接したいということを書きました。
今もそれを心がけて生きています。

ラジオにて、とある有名な方が海外で現地の人に怒鳴られても泥棒されても怯まず、相手に興味を持って人対人として向き合い接し親切にすることで結果的に全員「日本人大好き」にさせた日本人がとても誇らしく思いました。
日本人というか、その人が好かれたんだと思うのですが、日本人代表というような立ち振る舞いをされていたのです。
聖人か?と思いました。

その人は「やりたいことは言葉にし続けると実現する」と言っていましたが、5年ほど言い続けて本当に国をあげての大役を叶えたということでした。

私はそろそろ海外で自分の作品を展示したいけど、そういえば誰にも言ってないかも。
何というか、まだ自分の作風が完成していなくて。
なんて言ったら、私の知っている作家さんたちは「とりあえずやってみないと!」と言うだろうな。
完璧主義は損をしますね。

仕事も少しずつ軌道に乗っているので、忙しくなる前にもう少し煮詰めていきたいな。
私の好きなこと、やりたいこと、テーマ。

さて、最近わたしは料理を出汁から作ることにハマっています。
画像はドンコと昆布です。
これがまた美味しい。
この出汁を使って食べる素麺、山形だし、茶碗蒸し、スープ、、、何にでも使えて万能。
そして数日この出汁を使ったご飯を自分で作って食べていたのですが、だんだんと舌が旨味成分に慣れてしまったせいか、砂糖を使用したコンビニで売っているような甘いスナックを食べたところ、かなり強い味に感じました。
何というか、とても刺激的な味に感じるのです。
塩気はまた別なんですよね。
不思議。

不思議といえば、私、よくうたた寝をするんですが。
私の部屋は3階にあります。
2階で地面に近い場所で眠ると、背中から魂だけを引っ張られるような感じがするんです。
ちょっと苦しくて苦手、そのおかげで悪夢もよくみます。
それがまたリアルで、家に何かよくない者が入ってくるような。
私が叫んだり何やかんやして追い払って、ハッと目が覚めるというか。
でも3階で眠ると全くそういうことがないんです。

こんなのネットで調べても出てこないし、困ってます。
何かご存知でしたら教えてもらえると嬉しいです。

お題「手作りしました」

わたしを味わう方法

日中は暑いけど、夕方は涼しい。
ちょっと早いけど、雲が高いと秋の訪れを感じる。

昨日からちょっとマイナス思考モードの私です。
自分を傷つけたくないなぁというところ。
そういうものはなるべく排除して生きていますが、自分が自分を傷つけようとする日もあったりします。
そういう時は一旦眠るに限る。

私は愛情が大きいのか、今までも恋人には重くなってしまうなと自覚していました。
それが悪いことではないと思うのですが、これは信頼度も関係あるんじゃないかと最近思うようになりました。
この信頼度というのは、相手または相手の周りに対してのものです。
相手を信じていても、周りを信じられない人もいますよね。

どうしてそういう思考に至ったかというと、友人夫妻やカップルと話していて思ったことです。
他人事だから冷静に考えられることもありますね。

人それぞれ考え方や生き方が違うのですから、カップルだってそれぞれ愛の形は違います。
私の周りでは、男性の愛の方が重かったりするとうまくいくみたいです。
そういう方は誠実な人が多いようで、女性は安心して天真爛漫に生きます。
すると男性は「他の人に取られるんじゃないか」と落ち着かないようなのです。

変なの。

私もそう思いました。
でも女性の方の話を聞いていると、男性が落ち着かないというのも頷けるのです。
女性は過去に付き合った方々とも連絡を取ったり、食事に出かけることもあるのだとか。
ただそれを縛られるのは交友関係が狭くなるので嫌なのだそう。
でも嫉妬されるのも困る。と言うのです。

変なの。

考えに考えた結果、その嫉妬って女性に向けられたものというか、男性が周りの男性に警戒しているだけだとわかりました。
なので解決策としては
1、相手と同じように嫉妬すること(フリでもいい)
2、どんな人なのか紹介すること
3、わかりやすい愛情表現をしっかりとすること
以上3つが出来ればマシになるんじゃないでしょうか。

1は、女性が嫉妬し、男性がそれに困っている場合にも有効でした。
現在はうまくいっているそうです。
何だって人間対人間なので性別なんか関係ないかもしれませんね。

皆が楽な気持ちで幸せになればいいなと思います。

対して私は、毎日ひとりでものづくりをしているため、人付き合いも出会いも減って、刺激もなく寂しいこともあるけれど、変な人と会うことも、また合わせることもない分、ストレスも軽減され、ぬくぬくと安心に生きております。

自分も変なところはあるから、他人にストレスを与えなくて良いです。
世界平和に貢献していると言えます。
多分ひとりで生きるのにとても向いているタイプだと思います。

でも結局人間ひとりで生きられないので、いろんな人と食事をしたり会話をしたり遊んだり。
コミュニケーションをとっています。
自分の愛が重いことを知っているので、分散することを意識して生きるようにしています。
私の愛の重さは、今は特定の誰かへの嫉妬とかではなくて「愛したい欲」というものじゃないでしょうか。
それをどう分散するかというと、好きな友人や家族や親戚、自分と血のつながらない人や自分に関係のないすれ違う人々にすら気にかけることです。

旅に行けば「これは○○が好きそうだからお土産にしよう」
家族には「もうすぐお誕生日だからこれをプレゼントしよう」
血のつながらないボランティア先の子供たちへ「少しだけどお菓子を届けよう」
(スタッフさんに送ってもいいか確認してからにしました)
電車で目の前に来た、お年寄り、体調の悪そうな人、ヘルプマークをつけた人、妊婦さん、子供連れ、高いヒールで疲れていそうな人、重たい荷物をたくさんもっている人、にはすぐに席を譲ります。
ラッシュアワーでも目の前でおばあさんがゆっくり歩いていたら「焦らずにゆっくりね」と心の中で思います。
横断歩道でもうすぐ信号が赤になりそうだけどゆっくり歩く人がいたら、私も近くを同じようなスピードで渡ります。
通りすがりに小さい子供が泣いていたら、親戚の子に少し余分に買っておいたオモチャをひとつ差し上げます。
2人以上で写真を撮り合っている人には、声をかけて全員での写真を撮ります。
お世話になっている方には「いつもありがとうございます」と伝えます。

そんな些細なことで、本当に何でもいいんですけど、相手を気にかけて、尊重するというコミュニケーション方法(思いやり)は生きる上で大切だと思うのです。
私の行動や思考ひとつで誰かが楽な気持ちや嬉しい気持ちになるならいいじゃないですか。
私の愛が有り余っているのなら、こういう方法で分散するのが今の自分には合っているようです。

ただ注意しているのは、押し付けがましくなっていないか、見返りを求めていないか。
「やってあげた」は気持ちの押し付けなので余計な気持ちだと私は思っています。
「やった」という事実だけでお腹いっぱいになれたら、それが愛なんじゃないかな。
「やらされた」もまた別なので「自らやった」という行動や思考で十分です。
あとは忘れるようにすると良いです。

それでも私はたまに負の感情に悩まされることもあります。
そんな時は「今わたしはこの感情に浸りたいんだな」と受け入れるところから始めます。
それから何がきっかけでその感情や思考に至ったのか原因を考えます。
原因がわかったところで、その気分なのですから気の済むまで悩みます。
あとは眠るだけ。

そうやって日々を生きています。

どんな感情も、どんな日々も、どんな料理も、じっくり味わうのが好きです。
わたしの感覚は、私にしかわかりません。
言葉にして共有したところで、近いところまでは行くかもしれないけれど、全く同じことを感じることは不可能。
私は私や私の人生を味わう。

私は今ここにいる。
存在していることを味わうためにブログを書く。
これは今現在の私の思考。
良いことも悪いことも私の考え次第。
妄想して悪いように考えてしまうこともあるけれど、大体取り越し苦労。
自分も他人もずっと誰かのことを考え続けている暇はない。
期待しすぎず、悪い妄想もそこそこに、今を生きた方が楽しい。

今週のお題「人生最大のピンチ」
ピンチなんてしょっちゅうあるけど、それも後で考えると笑えるから不思議。

私は自分を認識できているか

ふと、動物は自分を自覚することがあるんだろうかと思いました。
そして人間はいつどうやって人間だと自覚したのでしょう。

縄文時代には鏡はなかったはず。
水面に映った自分を見て、自分の姿形を自覚できたのでしょうか。
人間は他人を通して、自分を自覚できるのかしら。

私は自分の顔も他人の顔もすぐ忘れてしまうので、縄文時代に生きていても自分の外見を自覚することはほぼなかったというか興味もないまま生を終える気がします。

そうなると人はどうして動物と自分は違うと思えたのでしょう。
毛の有無?
大きさ?
不思議です。

周りに人間がたくさんいて、目に見える手足が同じ本数あって、同じ形で、皆が同じように動いているのなら、自分も同じように動けると気がつけます。
でももし、ターザンみたいに周りに同じ形の人間がいなくて、一人ぼっちで生きていたら?
私は何をもって人間だと自覚できるのでしょう。
ターザンは幸いなことに、同じような形の生物が周りにいたから猿のような動きが出来たんじゃないでしょうか。
もしそれが、虫しか存在しない砂漠のような場所だったら虫の真似をして生きた?

誰とも比較せず、交流せず、ひとりぼっちの人間の形をした生き物が砂漠にいたら。

でも、一から生きるには世話をしてくれる者が必要だし、飲食もしないといけない。
中々現実的ではないですね。

動物は鏡で自分を見るとまず「危険な生き物」と威嚇するのだそう。
同族嫌悪とはこのことか。とも思ったところ。

私はいつから私だったのかな。
もう少し考えてみよう。

今週のお題「SFといえば」

今更ながら知ったこと


恥ずかしながら、とても今更なのですが、学び始めたところで衝撃の事実を知った。
弘法大師空海って別人だと思ってたら「弘法大師空海さん」なのですね。
どこかで学んだはずなのに勘違いしていることがある。
まだまだ勉強不足ですね。
何かの宗教にどっぷりハマったこともなく、しかし色んな人や環境によりザックリ色んな宗教を体験していたもので、それぞれを中途半端に知っているつもりになっているんだな。と実感しました。

さて、今回私が空海さんについて学ぼうと思ったのは今度高野山へ行くからです。
行くからには色々学んでから行った方が感じるものも沢山あるかと思って。

そんなことを近所の神様にお参りした時にお祈りしたところ、それまで何ともなかったのに頭の左の方からズキッとした痛みが走りました。
以前も違う神様のお祈りの言葉を間違えたときに同じことが起きて、合ってる方と唱えたら治ったのです。
もしかして、本質を取り違えているってことかな?
そういえば今回高野山へ行く目的は学びとはまた別にあったのだ。
そう気付き、反省したら少しずつ痛みが和らいで行きました。
毎度ながら、不思議だなぁ。

この前も車でお墓参りへ行ったのですが、その日は午前中は晴れていたのに向かう途中からどんどん曇って来てついには雨が降り出しました。
私は雨音を聴きながら、何となくだけど龍神様やご先祖様たちがついて来ている気がしていました。
家族が途中で「傘を忘れたから雨具を買おう」とコンビニへ寄る提案をしました。
でも私は何となく必要ない気がしていたのですが、もうコンビニの駐車場へ車を停めちゃっていたので「じゃあ傘じゃなくて雨合羽を買おう」と伝えました。
雨具を購入してお墓へ向かうと、始めはポツポツ降ってました。
雨具を着て掃除をしていると、やっぱり雨は止みました。
到着するまで雨が降っていたので土が柔らかくほぐれて雑草の根が割と簡単に取れました。
ご先祖さまたちが「よくお掃除しといてね」と言っているように感じました。
車で帰る頃にはまたポツポツと雨が。

どこかで「雨は全てが整うと降る」とか「祝福の雨」と聞いたことがありますが、私はここ数年、暴風雨や台風などの自然現象が起こる度に「地上を大掃除してくれている」と感じます。
花粉症なもので、春には花粉が雨で地面に落ちたりして雨の日は助かっていました。
雨がやめば地面に落ちた花粉と水が蒸発して上がってくるけど。
チリも花粉も困るものは全部吹っ飛ばしてくれている。
そう考えると、清々しい気持ちになります。
私は往々にして「八百万の神様たちが“なんか良い感じ“にしてくれるのだろう」と信じているところがある。

話が逸れました。
弘法大師空海さんについて学んだところ彼には「仏教で全員を救う」という強い信念があったようです。
全員を救う・・・・・救うとはどう言うことを示すのかな?
何から救うのか。
苦しみや悲しみから救うとしても、地球って苦しみや悲しみから様々な体験を得るためにあるのに誰かがそこから救うって、どう言うことだろうか。
人はそれぞれ地球上でどう生きるかというプランを立てて産まれているのに?
救われることもプランの内なのだろうか。

地球は愛の星なのだとか。
でも苦しみや悲しみを経験しに来るかなりマニアックな星と聞く。
そうか、苦しみや悲しみを経験した上で愛を学び体験するのか。

その愛って何だろう。
ずっと前のブログにも書いていて気付いたこと。
愛って自分自身だ。
自分を愛し、他人を許し、分け与えるものなのだろうな。
なんて考えることは出来ても、実際に行うは難し。

たまに「誰かを愛したいな」「寂しいな」「他人が羨ましいな」って思うけれど、まずはその気持ちを受け入れるところからが自分を愛することになるんだろうね。
これって、独りじゃないと出来ないこと。
自分じゃないとわからないこと。

この間、弟に「歳上らしくしなよ」って言われました。
小さい頃から歳上らしいことなんかひとつもして来なかった私に今更何を求めているのか。
弟には昔「大きな歳下の人」と言い表されたこともある。
うーん。

ひとつ前のブログにも書きましたが、BTSの会食動画を観て「BTSは何でもこなしてしまうからアイドルという概念を良い意味で壊してくれたけれど、ARMYや国や世界に異常に期待されて彼等が本当に望むことをさせてあげられていなかった」と気付きました。
「〜らしくしてほしい」とは、他人の考えや希望であり、元を辿れば世間体や理想の押し付けから来ているものなので、それに全て応える必要ないな!と思っています。
自分がしたければすれば良いけど、他人の言うこと聞いたり気にしている人は“私“じゃないもの。

と言うわけで、多分私は一生“大きな歳下“でいます。
良いとこ取りで最高じゃないですか。
ご迷惑はおかけしますがお互い様ですよね!の図太い精神で生きようと思います。

今週のお題「マイベスト家電」
マイベスト家電?今は暑いからエアコンです。